中庸の考え方で物事を見るというのがそもそも中庸から外れてる気がする

周りから、メタ思考しがちと言われたり、物事を人と違った捉え方するねと、言われることが多いけど、自分の中ではいつもというか最近のモノの捉え方は同じことを意識してるんだよなぁと思っているのでメモ。

と、同時に、いま自分が物事を捉える方法って、これはこれで自分の考え方を固定してるなーと思っています。(中庸の考えに縛られることがそもそも中庸の概念とミスマッチしている感覚)

中庸の徳それ至れるかなという考え方

早速ですが、自分の物事の捉え方の大本にしたい、意識したいのがこの言葉です。

「論語・擁也」に見える孔子の言葉で、原文は、

「中庸の徳たる、其れ到れるかな。」

です。
どういう考え方かというと
「不足でもなく、余分のところもなく、丁度適当にバランスよく行動できるということは、徳としては最高の徳」
ということです。

中庸というのは、適度にバランスよくということなので、これは必ずしも中間を取るということではないというのが重要な認識になります。
以下、Wikipediaからの引用になります。

勇気は蛮勇や臆病の中間的な状態である時はじめて徳として現れる。アリストテレスによれば、この両極端の中間を知る徳性が思慮(フロネシス、実践知)である。 なお、ここで言う中間とは必ずしも2つのもののちょうど真ん中という訳ではなく、どちらかに寄っている場合もある。例えば、例にあげた勇気では臆病よりも少し蛮勇の方に傾いていると考えられるのが一般的である。

例えば以下はちょっと、賛同はできないです。
自分の理解としては、その勇気というのは、その状況状況で、一番いい具合の中間位置にあるので、蛮勇寄りなのか臆病寄りなのかはそのときにならないと分からないし都度変わるものです。

前提になっているのは、その両極端を知る思慮。

これもまた難しいのですが、
知識創造企業や失敗の本質で有名な野中教授も重要視している。

科学的知識と実践的知識を融合して、創造的な行動をする能力を指している。「個別具体的な場面のなかで、全体の善のために、意思決定し行動すべき最善の振る舞い方を見出す能力」である。深い倫理観、歴史観、社会観、政治観、美的感覚に基づく判断・行動である。そのため個人と社会の成熟が必要とされている。

両極を知るための思慮にとっては、個人としての成熟が必要ということです。
観、判断という言葉の通り、なのですが、〇〇観や、適切な判断をするためには経験、実践知を積み重ねることですね。

知識一般ではなく、経験の反復を積み上げながら、こういう状況ではこれであると判断できる能力が、実践的な知恵になる。

まとめ

まとめると、中庸っていうのはその時時に応じて最適な(それに限りなく近いと判断できる)判断、行動を取ること。そのために両極端を知らなくてはいけなくて、そのためには、その点についての諸経験による経験知、実践知を積み重ねることが必要だということなのか?必要かはわからん

そしてタイトルの通りなのですが、この考えにのみ頼るということそのものが中庸から外れてる気がする今日この頃。

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