三日坊主

ブログの更新が1か月以上なかったというメールが来て、そういえばブログなんかはじめてたんだったと思いだした。いいサービスだなあ。

一か月間ずっと忘れていたわけでもなく、書くネタがないわけでもないのだが、私の性格の根本にある飽き性が更新するのを邪魔していた。せっかくなのでこのことについて書いてみようと思う。

思い返してみると、私は人生のどの場面においても何かを継続してできたことがない。小さいころにはピアノや習字を習わせてもらったが、通うのが面倒になってすぐやめた。ゲームもよくやったが、大半がクリアする前に飽きてやめた。勉強もすぐに飽きるので教科書の最初の方だけやたらと詳しくなったし、料理を頑張ろうと思って料理道具をおおかた揃えたころには自炊なんてしなくなっていた。

誰しもそういった部分は多少なりとも抱えているのかもしれないが、私の場合はそこにエセ完璧主義が混じっているからより性質が悪い。上達のために継続が必要なことはよくわかっているし、何かを始めるときは質より量が大事で、ひたすら数をこなすことが実力につながることもなんとなくわかるのだが、そういったとこで妙にカンペキを目指してしまうのだ。そのおかげで卒論なんか地獄のような苦しみだった。

本来、自分でテーマを決めて多数の文献を読み、それをもとに自分の考えや主張を発表するのが卒論であると思うのだが、私といえばそれらしく書いている学者の主張をこねくりまわして自分の言葉のように書き換えるようなことをやっていた。その結果、剽窃ではないが、私の言葉で書かれた訳でもない論文ができた。努力も特にしていないので当たり前の結果である。これで自分が納得いっているならそれはそれでいいのだろうが、私は提出のその瞬間までレベルの低いものを完成させたことを悔いていた。(今となってはどうでもいい)そういう後悔をしたくないなら努力をすればいいという話なのだが、私は努力が一番苦手なのだ。私の飽き性には「努力はしないが結果には完璧を求める」という最悪の欠点がくっついてしまっている。

考えているうちに、私が今までに飽きたものは、飽きっぽいことだけではなく努力ができないという性格の問題も関わっているではないかと感じてきた。ピアノは弾きたい曲を弾く技術がなくてやめたし、ゲームは強敵が出てきてその攻略がめんどくさいからやめた。そこにかかる努力ができないのである。また未来でも飽きと努力不足と完璧主義の狭間で苦しむのだろう。

ブログの更新に関しても、せっかくならば長文でいいものを!なんて考えたものだから、更新できなかった。よくよく考えれば誰かに金をもらっているわけでもないのだからテキトーな文章でいいのだと気づいたので、ブログを更新してみた。

「三日坊主」という言葉は、坊主を志して修行を始めたはいいもののその厳しさに耐えかねて三日で修業をやめる人、を指して言ったのが起源らしいが、私は3日ですら続かないし坊主を目指す志すらない。「3秒でハゲ」くらいが妥当かもしれない。

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