通勤や バスにしみ入る セミの声

通勤バスの中からセミの声を聞いていると、都会のセミが気の毒になってくる。ただでさえ短命だというのに、懸命に鳴いている声は街の喧騒にかき消され、1週間の命を全力で駆け抜けたセミは道端で仰向けになって干からびてしまう。儚いものだ。

こういった儚さを日常の中にふと感じることは多い。満開に咲いていた桜は次に見た時には散っているし、昔よく通った定食屋はオシャレなカフェに変わっているし、財布の金はすぐになくなる。

もっとも、儚さというのは今に限ったことではなく、昔から変わらず存在していたらしい。

祇園精舎の鐘の声、諸行無常の響きあり。沙羅双樹の花の色、盛者必衰の理をあらはす。奢れる人も久からず、ただ春の夜の夢のごとし。猛き者も遂にはほろびぬ、偏に風の前の塵におなじ。

誰しも読んだことがあるであろう、平家物語のこの一節を例にあげるとよくわかる。この世の真理などというと過激な議論に発展する可能性があるが、人間の営みが儚いものであるというのは、昔も今も通用する普遍的な事実といえるのではないか。我々は風の前の塵である。

どんなに金持ちだっていつかは死ぬし、炎上した芸能人のことは半年後には忘れているし、有名Youtuberの動画だってこのブログだって100年後には誰も見ていないのだ。

ただ人生が儚いからといって何もしないのはひねくれているとも思う。いっそ何も気にせずやりたいことをやれば、人生の儚さといった些事なことなど悩まずに過ごせるのかもしれない。知らんけど。

一つだけ間違いないと言えるのは、この文字を読んでいるあなたも、明日にはこの記事のことなどさっぱり忘れているということだ。

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