大規模農業と小規模農業の時代がかわりばんこ
農家が激減している。2020年に農業従事者の数は152万人。2007年に312万人いたことを考えると、13年で半分に減少している。高齢者がどんどん農業をやめているので、日本の農業人口はますます減少していくだろう。
https://www.jacom.or.jp/nousei/news/2021/04/210428-51026.php
高齢者の農家が農地を手放すと、その地域の担い手農家が耕作を引き受けることになる。この結果、日本の農地は零細な地主がたくさんいて、少数の小作人がそれらの農地すべての耕作を引き受ける、という形になっている。これ、旧来のイメージと「地主」「小作人」が逆。
戦前、地主は広大な農地の所有権をもち、小作人は地主からわずかな面積の農地を借りて耕作していた。小さな面積で耕作するから「小作人」と呼ばれていた。そして地主は大概、大面積を所有していたから、大地主と呼ばれた。なのに現代の日本では。
地主が零細で、持っている農地はとても狭く、細切れ。他方、農地を借りている小作人は広大な面積の農地を耕している。また、地主は「頼むから耕してくれ」と、頭を下げる側になることが多い。立場はむしろ小作人の方が強くなっているというちょっとした逆転現象。
借地とはいえ、広大な農地を耕していることを考えると、小作人という呼び名はどうもふさわしくない。「大作人」とでも呼んだ方がよいかもしれない。
最近は、地主がますます高齢化し、農地の所有権も「大作人」に譲りたがっている。このため、大作人はやがて大地主になる可能性も出てきた。
耕作してくれる人が大作人しかいない以上、日本農業は、大規模化が避けられない。これはもう、歴史の必然というしかないだろう。
ただ、歴史の必然という意味では、大規模農業はいつか非効率とされ、小規模農業が推奨される時代が来たりする。この、小規模と大規模の移り変わりを歴史から見て見よう。
大化の改新からしばらくして、農民にはひとしく口分田が配られることになった(班田収授法)。これで小規模農家が中心になった。これは、戦後の農地解放に似ている。農地解放では、それまで地主が持っていた農地を小作人の人たちに安く譲った。これによって小規模農家が劇的に増えた。
口分田の制度が始まって60年くらいたつと、耕作放棄地が増え始めた。これは、戦後の農地解放から約60年ほど経って耕作放棄地が増えてきた現代となぜかよく似ている。
これではいけないと、三世一身法(孫の代まで自分の農地にしていいよ)を発布したが効果がなく、ついに墾田永年私財法を発布。
すると、たくさんの人を束ねることができる有力者が開墾をし、自分の土地にし、現代ならさしずめ従業員にあたる人たちを雇い、耕させた。経営の大規模化。これが荘園。
これは現代の大規模農家に似ている。従業員を雇って、広大な面積の農地を耕す大規模農業。
荘園を運営するリーダー(田堵)は少しでも経営を有利にするため荘園の名目上の所有権を大貴族や大寺院に譲った。その権力を利用して、納税せずに済ませる権利を獲得した(不輸・不入の件)。
これも現代の大規模農業で似た動きがある。大手小売企業と契約し、有利販売しようという系列化の動き。
つまり、口分田の小規模農家から始まり、荘園が発達するにしたがって大規模農業が中心になったのと、戦後の農地解放で小規模農家が中心となり、やがて大規模農業にシフトしていった現代と、歴史の流れがとても似通っている。
さて、大規模農業が真に効率的であるならば、荘園の発達後、大規模経営のまま、第二次世界大戦まで続いたはずだ。しかしそうではなかった。荘園という大規模農業のスタイルは歴史の途中でいったんピリオドを打っている。その時代とは、戦国時代末期。
戦国時代を経ることで、荘園の所有権は複雑になっていた。貴族のものかと思いきや、武士が台頭し、大名が税を取り立てたりする。荘園はいろんなところに目配りせざるを得ず、効率的な経営が難しくなっていた。
戦国時代末期に近づくと、画期的な技術が開発された。平野を農地に変えるという技術。それまで平野部は、水浸しの沼地で、疫病も発生しやすく、人の住むところ出なかった。あまりに水浸しで農業も難しく、すぐ洪水が起きるので、農業に向いていなかった。
しかし戦国大名の中に土木建築が得意なものが現れ、平地に灌漑用の水路を設け、沼地の水を抜く排水路の工事を実行できるものが現れた。平地にこうした工事を施すには、相当の指導力と、かなりの資本力が必要となる。工事の間、賃金を払わねばならないからだ。
どうやら織田信長、豊臣秀吉、徳川家康という、東海地域で天下をかわりばんこで奪い取る人物が現れたのも、濃尾平野などの広大な沼地を農地に変える土木工事を実施し、広大な耕作地を作り出し、生産力をアップしたことが大きかったようだ。
平野を農地に変えるという技術の登場は、荘園という大規模農業を非効率なものに変えた。荘園は基本、従業員にあたる下人に命じて集団で耕作させるわけだけれど、原則、指示待ち人間。指示以上のことを頑張っても待遇が良くなるわけじゃないから、あまり頑張らない。
しかし開墾すれば自分の農地になる、というならば、話が違ってくる。「うちの従業員が開墾したのだからうちの荘園のものだ」と荘園主が言い出すと、開墾を実際に行った人間のやる気を損なう。そこで信長や秀吉は、農地の所有権を、実際に農地を耕している人間のものだとした。荘園の権利を切り捨てた。
その際、「検地」が重要な役割を果たした。「この農地はAが耕しているからAのもの」という、登記の役割を果たした。検地してもらえば、晴れて自分の農地を持てる。あとは自分の努力次第で、どんどん豊かになれる。信長や秀吉は、こうして小規模農家のやる気を促すのがうまかったらしい。
豊臣秀吉による太閤検地が全国的に成功したのも、荘園という大規模農業が、あまりに経営的に複雑になりすぎて非効率になっていて、個人の小規模農家の土地所有権を明確に認めたほうが、生産意欲を高めることができる、という時代の変化があったためのようだ。
田中圭一『百姓の江戸時代』(ちくま新書)には、検地してもらいたがる農家の話が掲載されている。自分の耕している農地が自分のものだと検地で明らかにしてもらうことで、複雑な所有権を全部整理してもらえ、荘園主に支払う税もなくなるので、ありがたかったらしい。
徳川家康は、秀吉によって国替えを余儀なくされ、江戸に移った。江戸のあった関東平野は当時ひどい沼地で、農業なんか全然行えなかった。しかし家康は東海地域で磨いた干拓技術で沼地を農地に変え、巨大な生産力を得た。これが関ヶ原の戦いで雌雄を決する大きな力になった可能性がある。
江戸時代は、戦国末期から始まっていた小規模農業全盛の時代を基本、受け継いだ。江戸時代の農村は驚くことに、核家族が多かったことで知られている。あまり長生きできない時代だったこともあり、老父母と一緒に住んでいても死んでしまい、夫婦と子供だけの核家族になりやすかったという。
また、江戸時代前半は、平野部を農地に変える開拓がどんどん進められたので、長男でなくても独立して自分の農地を持つことができた。そんなこんなで、江戸時代前半は核家族が意外と多い、という面白い状況が続いた。
徳川吉宗が将軍になるあたりから、開拓できるところはし尽くしてしまい、農地面積拡大がストップした。ここからモードが変化するのだけど、今回の大規模・小規模農家の変遷とはちょっと話が違うので端折る。江戸時代は曲りなりに、小規模農家の時代が続いたと言ってよいと思う。
小規模農家の時代が終焉したのは、明治維新が起きてから。すでに江戸時代後半には地主の発達と小作人の発生があったけど、明治維新がそれを加速した。明治政府は、税をコメじゃなくてカネで納めろ、と言い出した(地租改正)。これは小規模農家には大きな負担だった。
小規模農家はコメを現金に換えるツテがない。小規模農家だと、現金に換えるための面倒な手続きをやるだけの余裕もない。このため、地域の有力地主の手を借りることになる。中には、現金を調達することができないからと、地主に土地を売って、自ら小作人になるケースもあったという。
また、明治になって、農地の生産量を大きく向上させる技術が普及した(乾田馬耕)。しかしこれを実施するには、大規模な土木工事が必要。そんな工事を実施できるのは、経済力のある地主だけ。これにより、地主はますます力を得た。しかも向上した生産量は地主のものになるケースも。
こうして、明治からしばらくすると、地主が小作人に耕させるという大規模農業の形態になった。新技術の乾田馬耕の効果もあり、生産力は大きく伸びたのだけれど、やがてこの大規模農業の形態は、徐々に非効率になっていった。寄生地主、不在地主の発生。
村に住んで、小作人と共に耕作する地主(在郷地主)は、村のみんなの暮らしぶりをよく知っているから、無茶な小作料をとることはないし、生活支援も細やかに行ったが、村に住まず、都会に住んでいる不在地主は、小作料を要求するばかりで、村人のことを考えなくなっていった。
あるいは村には住んでいるものの、自分はぜいたくな暮らしをして自堕落に過ごし、小作人に「小作料支払え、土地の所有権は俺にあるんだ」という態度を示す寄生地主も現れるようになった。不在地主、寄生地主のために小作人の人たちは働きたくない。このため、小作争議という名の一揆が盛んに。
小作争議の総数は、江戸時代260年の歴史での百姓一揆の数2809件と比べ圧倒的。1941年3308件,42年2756件,43年2424件,44年2160件。地主・小作人による大規模農業のスタイルは、かなり非効率なものとなり、当時の農商務省も問題視していた。
戦後、農地解放が実施されたのには、地主による大規模農業のスタイルがすでに限界に近づいていたことも背景にあるように思われる。
さて、大規模農業と小規模農業の変遷を振り返ると、次のようになる。
口分田による小規模農家の時代→荘園による大規模農業の時代→太閤検地による小規模農業の時代→地主による大規模農業の時代→農地解放による小規模農業の時代→現代の大規模農業の時代
小規模と大規模を繰り返している。
だとしたら、現代日本では大規模農業が効率的であるのは間違いないとしても、将来的に大規模農業が非効率となり、小規模農業に切り替えたほうがよい時代が来るかもしれない、というのは、どこかに頭に入れておいた方が良いだろう。社会状況が変わると、どちらの形態がふさわかしいかは変わるわけだ。
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