飽きる生き物

「人が人を殺しちゃいけない」ということが、元兵士の方の伝えたい眼目なのに、「国のために戦ったのに人殺し呼ばわり」と、見当違いに元兵士を持ち上げつつ、巧みにその意向を無視し、質問した櫻井氏を非難するという狡猾な論理が出てきた現象はまことに興味深い。
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戦前・戦中は「天皇陛下のご命令なるぞ」を軍部・軍人が乱発したらしいけど、言ってへん言ってへんそんなこと、何勝手に名前使っとんねん、という事例も多々あったようだ。尾崎行雄は「天皇陛下の椅子を盾にしてその後ろから銃撃する」ような卑怯なマネだと指摘したけど、そんな輩が多かったらしい。

さて、今回の「元兵士が国のために戦ったのを人殺し呼ばわり」と、櫻井氏を非難するのも、「国のために戦った」元兵士を盾にとり、その後ろから銃を撃つような、実に卑怯かつ狡猾な論理を最初に言い出した人間は、なかなかずる賢い人間と見受ける。少し考えないと見抜けないその狡猾さが実に巧妙。

しかも元兵士の方は「人が人を殺す」、そんなことが起きちゃいけない、ということを伝えるのが真意だったのに、その狡猾な論理はものの見事に無視している。元兵士の方を「国のために戦った英雄」として持ち上げつつ、その肉声、意向を完全無視するという、敬意を払ったかに見せる不敬。実に狡猾。

「軍の命令に従っただけの一兵士にそんな酷なことを聞くのはダメだ」という論理もなかなかに狡猾。現場に身を置いた兵士に聞いたらダメとなったら、将官クラスに聞けというのか。だとしたら、死地に身を置かない人間による虚飾にまみれた表現で戦争が描かれるリスクがある。そこに巧みに誘導する論理。

「テレビの前であんな質問したら失礼」というのも見当違いに思われる。個人として対する場合なら、そういう質問には慎重になるべきかもしれない。しかし元兵士の方はテレビに出ることを承知した。それは冒頭のことを伝えたかったから。ならば聞かない方がおかしい。礼儀にかこつけた意向の無視。狡猾。

他方、伝え方にも課題が出てきたように思われる。人間は「飽きる」生き物。戦争の伝え方がステレオタイプで、戦争体験のない世代は「また同じパターンか、ミミタコだ」と受けとめる人が増え、新鮮味のある主張になびきやすくなっている。従来の伝え方が「飽きられている」現実は直視した方がよい。

戦争は非常時であり、非常時であれば人を殺すのもやむを得ない、それが敵であればなおさら、という「勇ましい」論理は、戦争を知らない世代にウケがよい現実がある。その論理に従えばステレオタイプな話を聞かずに済む、という実利的な思考が動いていると考えてもよいかもしれない。

戦争世代がたくさん生きていた時代には、その語り方は「共感」を呼ぶことができた。なにせ、皆さん体験していたことだから。ところがその世代がこの世から去り始めると、「共感」式語り方に反応してくれる人が減りつつある。戦争体験のない世代には別の伝え方を工夫する必要がある。

「戦争の悲惨さを現代に引き継がなければ」は申し訳ないが、ステレオタイプ。その言葉を聞いたとたん、新鮮味のない話が続くのか、と、現代の世代に感じ取られるリスクがある。その感覚を責めても仕方ない。人間は「飽きる」生き物なのだから。そもそも聞いた話だけの未体験世代には「話」でしかない。

リアルに体験した人と、伝聞でしかない人とでは、同じ語り口でも感じ方が違う、という現実。人間は同じ語り口で聞かされると「飽きる」生き物であるという現実。ステレオタイプは作成側にはラクだが、工夫が求められる。今回の騒動は、伝える側にそろそろ工夫が必要であることの証ではないか。

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