「ユマニチュード入門」抜粋

人間の、動物の部分である基本的欲求に関してのみケアを行う人は「人間を専門とする獣医」 です。
「ユマニチュード入門」p.32

脆弱な状態にある高齢者や疾患をもつ人も、他者との関係に着目すると、赤ちゃんと同じ状況にあるといえます。 ユマニチュードは、この「人と人との関係性」に着目したケアの技法です。
「ユマニチュード入門」p.33

ユマニチュードの理念は絆です。 人間は相手がいなければ存在できません。 あなたがわたしに対して人として尊重した態度をとり、人として尊重して話しかけてくれることによって、わたしは人間となるのです。
「ユマニチュード入門」p.33

わたしが誰かをケアをするとき、その中心にあるのは 「その人」ではありません。ましてや、その人の 「病気」ではありません。 中心にあるのは、わたしとその人との「絆」 です。
「ユマニチュード入門」p.33

生まれてすぐの子猫は、親猫に愛情を込めてなめてもらわないと死んでしまいます。 なめてあげること、 なめてもらうことは猫たることの特性、 “猫らしさ”を認め合う行為です。 子猫はなめてもらわないと、 生まれ出た世界に自分の居場所がないと感じて、生きる意欲を失ってしまいます。
p.34

母猫が分娩したときを、子猫の「第1の誕生」と呼ぶことにしましょう。 これに引き続いて親猫からなめられ、 猫らしさを認められたときが、子猫にとっての「第2の誕生」です。第1の誕生が生物学的な誕生だとすれば、第2の誕生は社会的な誕生、つまり同じ種に属する仲間として迎え入れられたことを意味します。 第2の誕生につながらなければ、 第1の誕生は無駄に終わってしまうかもしれません。
「ユマニチュード入門」p.34

この2度目の誕生に欠かせない、まわりの人からまなざしを受けること、言葉をかけられること、触られることが希薄になると、周囲との人間的存在に関する絆が弱まり、 “人間として扱われているという感覚”を失ってしまうおそれがあります。
「ユマニチュード入門」p.36

言語的なものであれ非言語的なものであれ、こうした意味あるフィードバックがなければ、つまり返事もなく、うなずいてもくれなければ、メッセージの送り手はコミュニケーションをあきらめてしまうのは当然のことです。
「ユマニチュード入門」p.56

たとえば自分の仕事である入浴介助業務はしっかりとやっていても、ケアを受ける人へのまなざしはなく、言葉もかけていないことがよくあります。これはケアする人たちが、「相手が応答してくれないので、こちらも話しかけなくてもいい」という罠に落ちてしまっているのです。
p.57

送り手がコミュニケーションを続けられるように、エネルギーを補給する方法はないでしょうか?エネルギーを相手からもらえないのであれば、自分でつくり出してみてはどうでしょう。(中略)いま実施しているケアの内容を「ケアを受ける人へのメッセージ」と考え、その実況中継を行うのです。
p.57

ポジティブな触れ方には、「優しさ」「喜び」「慈愛」、そして「信頼」 が込められています。 動作としては「広く」「柔らかく」「ゆっくり」 「なでるように」「包み込むように」という触れ方です。 これらはみな、ケアを受ける人に優しさを伝える技術です。
「ユマニチュード入門」p.64

逆にネガティブな関係においてはどうでしょう。 たとえば「怒り」や「葛藤」をともなう場面です。 触り方は 「粗暴」で「拙速」になり接触面積は「小さく」なり、かける圧力は「強く」なって、「急激」な動作で 「つかんだり」「引っかいたり」「つねったり」することになるかもしれません。
p.64

赤ちゃんに触れるとき、自分がどんな触れ方をしているか意識したことはあるでしょうか。 赤ちゃんは、自分で立って歩くことも、言葉で欲求を伝えることもできない弱い存在です。そのため、わたしたちは知らず知らずのうちに、ある共通した技術を自然に使って触れています。
「ユマニチュード入門」p.64

でも手首をつかんで彼女を引っ張って歩いていたらどうでしょうか。
「あの女性とイヴのあいだには何か問題があるんだな」とか、あるいは「連行されているんだな」と多くの人は思います。
ケアのときはどうでしょう。 なんと清拭をする際には100%手首をつかんで持ってしまっているんです!
p.65

他者に依存しケアが必要になった人は、 快・不快の情動を頼りに生きています。 だからこそ、 わたしたちはプロフェッショナルとして、意識的に「広く、優しく、ゆっくり」 触れる必要があります。
「ユマニチュード入門」p.66

わたしたちは日常生活において、相手の手首や足をいきなりつかんだりしません。日常生活で誰かに手首をつかまれるとすれば、それは「どこかに連行される」というような非常にネガティブな状況でしょう。しかしケアを行う際には、何の違和感もなく、相手の手首や足をつかんでいることがあります。
p.68

ユマニチュードの「触れる」行為は決して力づくでは行いません。移動に際して10歳の子ども以上の力を使うことはなく、また、体のある部分を動かす際には5歳の子ども以上の力は使いません。
「ユマニチュード入門」p.71

命が誕生して、社会性をもつ人間として生きる基礎を獲得していく。そのとき母親が赤ちゃんに対して無意識に行う自然で前向きな行動、すなわち「見る」 「話す」 「触れる」 の3つの柱がケアにおいても重要
「ユマニチュード入門」p.74

子どものころに自分の力だけで立ち上がったこと、 それを見ていた親や大人に喜ばれたという記憶は、ポジティブで誇りに満ちた感情記憶です。
「ユマニチュード入門」p.74

寝たきりの高齢の人(中略)は、いつも見下ろされています。 垂直の視線しか受けることのないその状態は、首が座る前の新生児が受ける視線と同じです。そのまま放っておかれれば認知機能は低下して、外側の世界に関心を向けることも少なくなり、自分の内側の世界で生きるようになります。
p.74

ケアが必要な高齢の人に対して、赤ちゃんを育てるときのような愛情にあふれた行動を自然にとる本能は、わたしたちには備わっていません。したがって、視線を受けることも、 話しかけられることも、触れられることも自然に少なくなっていき、認知機能はますます悪化します。
「ユマニチュード入門」p.75

「レベルに応じたケア」 を受けていたならば、今でも立つことができたかもしれません。 その人の能力を生かさないケアによって歩けなくなっているのだとしたら、 それは医原性といってもいいでしょう。 高齢者が寝たきりになるには、3日から3週間もあれば十分です。
「ユマニチュード入門」p.75

寝たままで行っている保清の時間を、立つ時間に変えてみたらどうでしょう。 ケアを受ける人は、毎日何らかの保清ケアを受けています。 立って保清をする方法に変えることで、 立位のための時間をわざわざ捻出する必要はなくなります。
「ユマニチュード入門」p.76

まず体を持ち上げないこと、そしてケアを受ける人に「体を持っていますよ」 と言わないことが重要です。 本人が自分の力を最大限に使うように仕向けるのです。
「ユマニチュード入門」p.78

ケアをする人が自然に助けてしまうことが、本人が立つため、歩くために必要な知覚情報を奪うことになるのです。本人の行動に必要な知覚情報を奪わない介助の方法を学ぶ必要があります。
「ユマニチュード入門」p.78

ケアの実践は、試行錯誤の積み重ねでもあります。 これまでの仕事の文化や方法も変えなければならなくなるかもません。
「ユマニチュード入門」p.86

ルーマニアの共産党政権崩壊後に見つかった、ある孤児院(中略)では60人の子どもに対し、面倒をみるスタッフは1人だけしかいませんでした。
みな正常に生まれてきた子どもたちでしたが、見つめられることも、話しかけられることも、なでられることもなくそこで長く暮らすうちに、いわば知覚遮断状態に陥り、全員が自閉症のような症状を呈するようになりました。

当初、その孤児院を訪れたフランスの医師たちは、 「子どもたちは全員が自閉症である」との説明を受けました。 しかし、その子どもたちがフランスの家庭に養子として迎えられ、家庭生活を送るようになると、自閉症のような症状は徐々に消えていきました。
「ユマニチュード入門」p.84

周囲から優しく見つめられたり、話しかけられたり、触れられることのない高齢者は、このルーマニアの孤児院の子どもたちのように知覚遮断状態におかれていると考えることができます。
「ユマニチュード入門」p.85

ユマニチュードにもとづくケアを行った結果、 ケアを受ける人の態度が穏やかに変化することがよくあります。 そんなとき、懸命に日々のケアに取り組んできたわたしたちは「今まで何をやっていたのか!」と衝撃を受けるかもしれません。
でも、自分を責めないでください。
「ユマニチュード入門」p.90

これまで頑張ってケアを実践してきた人たちの負担が減り、やりがいや満足感を得ることもこの技法の重要な目標です。
「ユマニチュード入門」p.90

ケアを懸命に行っている人には、まず観察から始めていただきたいと思います。
「ユマニチュード入門」p.90

事前に “やるべきこと ” が決まっていて、それを実行しに来たという雰囲気が強調されすぎると、もともと入浴が嫌だと思っている人は威圧的・強制的に感じ、さらに強い拒否反応を示す可能性があります。
「ユマニチュード入門」p.91

わたしたちはしばしば “認知機能の低下がかなり進行しているから、言ったってわからないだろう” と思ってしまいます。 しかし逆に認知機能が低下した人にこそ、ふだん日常的に行っている常識的なかかわり方が大切なのです。
「ユマニチュード入門」p.93

相手の反応を待たずに近づいていき、いきなり「はい、体を拭きますよ」と大きな声をかけることは、友人の家を訪ねるときに、 インターホンも鳴らさずにドアを開けて、あいさつもせずに 「夕食は「なに?」と言うのと同じくらい唐突で失礼なことです。
「ユマニチュード入門」p.95

ところが、しっかり熟睡しているところで、 1回だけノックの音がして、 まだ十分に起きていないのに、枕元で 「○○さん、起きてください!」と大きな声で叫ばれたらどうでしょう?これでは誰もが驚きますし、イライラしてしまうかもしれません。
「ユマニチュード入門」p.95

大切なのは、「自分が来たことを告げて相手の反応を待つ」ことを繰り返し、徐々にケアする人の存在に気づいてもらうことです。声をかけるとき、つまり出会いのときに相手を驚かせないことを忘れないでください。
「ユマニチュード入門」p.97

所要時間は20秒~3分です。 これまでのユマニチュードの実践の経験では、およそ90%は40秒以内で終わっています。つまり、面倒なようでも、とても短い時間しかかかりません。
ユマニチュードのこの技術を用いることで、攻撃的で破壊的な動作・行動を83%減らせたという報告があります。
p.100

ここで大切なことは、 3分以上このプロセスに時間をかけないということです。 3分以内に合意を得られなければ、そのときはケアすることをあきらめていったん出直します。
「ユマニチュード入門」p.100

合意のないまま行うケアは、「強制ケア」になってしまいます。「強制ケアを行わない」ことは、ユマニチュードの基本理念です。たとえそれが「ケアする人が相手のためを思って必要と考えるケア」であったとしても、強制的な印象をもたせたままケアを実行してはいけません。
「ユマニチュード入門」p.101

しかし誰しも忙しいのです。だからこう考えるべきではないでしょうか。 時間がないことが問題なのではなく、その時間内にどんな行為を “選択” しているかが問題なのだと。
「ユマニチュード入門」p.101

ケアを行う前には必ずよい関係をつくることが大切で、合意が得られなければ、いったんあきらめてその場を後にするべきです。
「ユマニチュード入門」p.102

訪室するときは「お話をしに来ました。 そのついでに、よろしければ体を拭いても構いませんか?」 というようにかかわるとよいと思います。そうすると、 強制的な雰囲気が一気に減ります。 そのことによって生じる患者さんの反応の違いにはいつも驚かされます。
「ユマニチュード入門」p.107

本人の同意を得られるまでは、ケア(仕事)の話はしません。ケアする人は「○○さん、お風呂ですよ」「○○さん、お薬ですよ」と、近づいたらすぐに “ケア (仕事)”のことを強調して話しかけがちです。たしかにそれが最も伝えたいことではあるのですが、ケアを受ける人の立場からは、“仕事(入浴介助や服薬介助)のために来ただけ”というメッセージを受け取って、また嫌なことをされると感じてしまう可能性があります。
「ユマニチュード入門」p.109

“あなたに会いたいから来た"" あなたと話をしたい” という、その人とのかかわりを求めて訪室したことを強調します。
「ユマニチュード入門」p.109

ケアする人の適性や優しさの問題ではありません。(中略)認知機能が低下している人に、どのようにかかわるとうまく情報が届くのか、どのようにかかわると心地よさを感じてもらえるのかということは、誰もが技術として身につけることができ、実践することができるのです。
「ユマニチュード入門」p.117

あなたが患者さんだとして、 シャワーを浴びる理由はあなたが汚いからでしょうか?汗をかいたり、泥だらけになってるわけでないあなたをシャワーにお連れする理由は何でしょうか?
それは、あなたに喜んでほしいからです。清潔にするためだけではないのです。 第一の目的はそこにはありません。
p.118

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