誘導し狭める「ほめる」、笑顔を祈る「驚く」

どこで読んだか忘れたけど、とある美大の指導者は、学生の作品をほめないようにしているという。ほめるとそっちの部分ばかり力を入れるようになるから。ほめることは特定方向への誘導につながり、その人の可能性を狭めてしまうから。だという。

私は「ほめる」をやめて「驚く」ことを推奨しているけど、「驚く」が「ほめる」の代用品でしかないとしたら、やはり誘導になると思う。たとえば勉強方面のことだけに驚き、他のことに驚かなければ、ただの誘導。「ほめる」と大差ない。そのうち子どもは真意を見破り、驚いても反応しなくなる。

私が親として、「赤毛のアン」のマシューを目指しているのはそのため。マシューはものの見事に、アンを誘導しようなんてピリとも思わない。アンのおしゃべりに、楽しそうに耳を傾け、時折驚いた顔を見せるだけ。しかし驚くのに作意はなく、まさかそうとは思わなかった、という純粋な驚き。

昨日より今日、何かが違ってた。その「差分」に気がつき、驚く。それはどんな分野であっても構わない。ゲームでもマンガでもよい。キミにはこんな面があったんだね、と、昨日まで持っていた認識を改める差分に驚く。私の目指してる「驚く」はそんな感じ。

私が指導してきた子はほとんどすべてが公立中学で偏差値53以下。偏差値40以下が必ず複数いるような感じで、偏差値55以上は塾では優等生だった。そうした子どもは叱られたりバカにされたりして、自信を失ってる子ばかり。まずは心を癒やす必要がある。そのとき、「驚く」は特効薬だった。

不良やってる子には「キミ、いい面構えしてるな!」と驚く。無口で引っ込み思案な子には「キミは物事をよく見極めようとするタイプだね。それ、仕事をきっちりする上で大事な力だよ」と、感心しながら話す。別に勉強だけに限らない。その子の特徴に気がつき、それに前向きに驚くと、心が動く。

たまに優等生も指導してたのだけど、そういう子がふてくされたような答案を寄越すと「お前も怒るんや、安心したわ。お前マジメやもん。お前もこういう面あるんやな、嬉しいわ」と驚き、笑ってると、肩の力が抜けて顔がほころびる。

その子の違った面、差分に驚かされ、楽しむ。それはどんな分野のどんなことでもいい。マシューがアンのやることなら何でもニコニコ肯定し、たまに驚き、アンが悲しそうならオロオロする。そんな、コントロールする気がまるでない境地に憧れている。マシューが祈ってるのは、アンが楽しそうであること。

「驚く」というのは、想定外のことが起きた時に起きる心理的現象。しかし期待通りの行動(たとえば勉強)に子どもを誘導するための作為的な「驚く」は、実際のところ驚いていない。「ほめる」の代用品でしかない。そういう作為的なのは子どもはすぐ見破る。そして真に驚くような行動に出ようとする。

コントロールしようとせず、ただ幸せでありますように、笑顔でいられますようにと祈り、ニコニコと笑って見守り、時折驚く。それを楽しむ。そうした、マシューのような境地に至りたい。
アンが、みなしごというつらい境遇にありながら自身を肯定できたのは、マシューのおかげだと思う。

まあ、人間なのでどうしても親の欲目というのが頭をもたげることがあるのだけど。楽しませてもらう、という気持ちで子どもと接することができたらと思う。

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