「~してあげる」→「あいつは~だ」というレッテル貼り 待ち、驚く→「~してくれた」という感謝

うちの子どもはちっとも勉強しない・うちの部下はちっとも働かない、とお嘆きの親、上司は、「~してあげる」「~してあげた(してやった)」というフレーズが多い気がする。一方、うちの子は勝手に勉強する・部下がよく働く、という親・上司は、「~してくれた」という言葉が多い。なぜだろう?

「~してあげる」という姿勢は、「これだけのことをしてやったのだから感謝しなさい、こちらの期待通りの行動をして見せなさい」という圧力、圧迫感がある。「お前のために俺がわざわざ」親切をしてくれるのだけど、要らぬ親切大きなお世話。押しつけがましさを感じるらしい。

子どもも部下も、親や上司の思い通りに何か動きたくない。人間はどうやら驚かしたい生き物。なのに驚くどころか、意のままに操ろうとする。それが嫌で、「~してあげる」という親や上司から逃げようとしてしまうのだろう。

子どもや部下が「~してあげたのに」ちっともいうことを聞かない、期待通りに動かない場合、親や上司は報復に出る。「あいつはちっとも勉強しようとしない」「あいつはちっとも働かない」と、レッテルを貼ることで懲らしめようとする。それに対して子どもや部下はどう振る舞うかというと。

「ええ、どうせ私は怠け者ですよ、怠け者だから怠けさせてもらいます~」と開き直ってしまう。レッテルを貼られたことに対して、開き直りという報復をする。親や上司は恩知らずと思ってレッテル貼りという報復をし、子どもや部下は開き直るという報復をする。報復合戦となる。

では、「~してくれた」という親や上司の場合はどうなのだろうか。子どもが~してくれた、部下が何も言わないのに~してくれた、と驚いている。そしてどうやら、子どもや部下は、驚いてくれるとかなり嬉しいらしい。そしてまた驚かそうと企む。親や上司はまた驚かされる。その好循環が生まれている。

驚きと感謝が、子どもや部下から意欲を引き出し、意欲的能動的に取り組む姿を見て、親や上司は驚きと感謝をする。こうした好循環が起きているらしい。
こうした話をすると、「それはできたお子さんだから、でもうちの子は」「それは部下が優秀だから、それに比べてうちの部下ときたら」と言われる。

でももしかしたら、原因と結果は逆なのかもしれない。子どもが、部下が不出来だから親や上司は嘆かずにいられないのではなく、親や上司の接し方に問題があるから、子どもや部下はやる気を失い、ふてくされ、開き直るという態度に出ているのかもしれない。

とある学年の子どもが、「国語キライ」「算数キライ」と言っていた。ところが学年が変わり、担任が別の人になると「国語大好き!」「算数大好き!」にコロッと変わり、成績も大変良好になった。こうした現象、結構見かける。プロ野球の監督も、選手の顔ぶれほぼ同じなのに優勝したり最下位になったり。

どうやら、子どもや部下の意欲は、親や上司の接し方に大きな原因があるらしい。接し方を誤るとやる気を奪い、接し方が適切だと抑えなきゃいけないくらいにやる気に満ち溢れる。接し方次第で、子どもや部下の意欲は大きく変化するようだ。

では、「適切な接し方」って何だろうか。どうやら、「与える」というのはどうもダメなパターンが多いらしい。「~してあげる」は、「~してあげることで子どもの意欲を引き出し、動かそう」とするのだけれど、「~してあげる」というインプット、与えるという姿勢は、むしろ意欲を削ぐものらしい。

他方、「~してくれた」派は、待ちの姿勢。与えるのではなく、受け取る側。プラスαというより「マイナスα」。子どもや部下に与えてもらう。そして親や上司はそれに驚く。提供者は子どもや部下であり、親や上司はしてもらう側、受け取る側。そしてそのほうが、やる気、意欲は湧くらしい。

ということは、私たちは大いなる勘違いをしていたのではないか。子どもや部下を動かすには与えること、何かしらプラスαなものを提供することだと思い込んできた。でもそうすればそうするほど子どもや部下は意欲を失い、動かなくなり、ふてくされてしまうように思う。

それよりも必要なのは、「マイナスα」ではないか。子どもや部下が与える側、提供する側。親や上司はそれを受け取り、驚き、感謝する側。そのほうが子どもや部下は意欲を高め、しかも楽しんで取り組むようになるのではないか。「この次はもっと驚かしてやろう」。

考えてみたら、お金持ちになりたいとか、社会的地位を得たいという欲望も、突き詰めると「周囲をあっと言わせたい」という、「驚かしたい」という欲求の表れでしかないのではないか。実は人間の多くの欲望が「驚かしたい」なのではないだろうか。

だとすれば、親や上司は「~してあげる」という提供型の接し方ではなく、「~してくれた」という待ちの姿勢、受取型の接し方の方がよいのではないか。人を動かすには、実はこちらが動かそうとするのではなく、自分が人に動かされるのを待つことなのではないか。

物事を動かすには働きかけるのが大切、という思い込みが私たちにある。しかし、巨岩を動かすには穴を掘るとよいように、むしろ「虚」の方が物事は動きやすい。プラスαより、マイナスαを心がけたほうが、物事はスムーズに進みやすいことは多いように思う。

「~してあげる」のが必要、という呪いを解除し、「~してくれた」という待ちの姿勢を試してみる。私には、そのほうがどうもよいらしい、という気がする。待ち、そしてことが起きたら驚く。感謝する。そのほうが、いろんな物事がうまく転がるように思う。いかがだろうか。

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