子どもの成長を祈ること、驚くこと、喜ぶこと、感謝すること

私の子育てのツイートを見て、やり方を失敗した、どうしよう、と嘆いているツイートが2,3、見られた。いまさらやり直しが効かない、と落胆する声。それについて、いくつか思うところを書いてみる。
まず最初に。いつからでもやり直せる、ということを申し上げておきたい。ただし。

思春期を過ぎると、親が取り返すのではなく、子ども自身が、自分の手で取り返す必要がある。もう、親があれこれ出しゃばる年齢ではないから。思春期以降、親ができることは、どうか子どもが自分で切り開いていけますように、と、祈ること。そして子どもが自身で道を切り開いたとき、驚き、喜ぶこと。

でも実は、「祈ること、子どもが能動的にアクションを起こした時、驚き、喜ぶこと」というのは、思春期前でもお勧めしていること。そう、いくつになっても、親が子どもにできることはそれだけなのではないか、と考えている。

親である自分を責めておられる方は、一つ、重要な思い違いをしている気がする。子育ては、親だけで行うことと思われていないだろうか。もちろん、親の存在は子どもにとって最大。けれど、子育ては親だけで完結するものではないと考えている。たくさんの人の助けを借りないと、子育てはできない。

子育てとは何か。端的に言えば、「いずれ先立ち、この世から親はいなくなる。その時、子どもが赤の他人だらけの『第三者の海』で泳げるように」。けれど、親は決して「赤の他人」、「第三者」にはなれない。親は子どもにとって、特別な存在。

だから親は「第三者の海」への泳ぎ方を、子どもに伝えることはできない。子どもが自ら飛び込み、泳ぎ方をマスターすることを祈るしかない。どうか、どうか、泳ぐ力を身に着けてくれますように、と。先立つ親は、子どもに何もしてやれない。子どもが自分でどうにかするしかない。

親は結局、子どもにしてあげられることは多くない。できることと言えば、祈ること。赤ん坊のころ、立つことも話すこともできなかったとき、本当にこの子は立てるようになるんだろうか、言葉を話すことができるんだろうか、と不安だった時と同じように。ただ、祈るばかり。

そしてある日、片言の言葉を話したり初めてヨロヨロと立った時、私たちは驚く。「しゃべった!いま、しゃべったよね?」「立った!立った!」
子どもは多分、どこかで覚えている。自分が道を一つ切り開いたとき、親は驚き、手放しで喜んでくれたことを。そして親を驚かせようと、さらに成長を目指す。

親ができることは、実は子どもが赤ん坊のころから変わらないのかもしれない。ひたすら子どもの成長を祈り、成長が見えた時に驚き、喜ぶこと。
でもきっと、これは子どもにとって、何物にも代えがたいご馳走。自分の成長で親を驚かすのは、とてもうれしく、楽しいこと。

私は、理想の親の姿とは、と訊かれたとき、「赤毛のアン」のマシューだと答える。あるいは、「大地の子」の主人公の養父。どちらもフィクションだけれど、これほど子どもにとってありがたい親の姿はないんじゃないか、と考えている。

もしマシューがいなかったら、アンはあれほど快活で勉強熱心な女性に育ったろうか?マシューはひたすら、アンが嬉しそうだと心から喜び、アンが悲しそうだとオロオロし、どうにかアンが再び元気を取り戻すよう、祈る。そしてアンが道を切り開くと驚き、喜ぶ。

アンはみなしごでつらい生活を送ってきて、想像のお花畑に逃避することで心を守ってきた少女。そんなアンの心を救ったのはマシューだと思う。小説であり、フィクションだけれど、マシューがいなかったらその後のアンはあるまい、と思う。

「大地の子」の主人公の養父も、主人公の成長を祈り、成長を見せると驚き、喜ぶ。そんな養父に育てられて、主人公は養父を喜ばせようと日々努力している。自分の幸せを祈り、成長に驚き、喜んでくれる人の存在は、子どもにとってとても大きいように思う。

実は、マシューも、「大地の子」の養父も、共通点がある。子どもを一度、捨てようとしたこと。
本当は男の子が欲しかったマシューとマリラは、手違いだったということでアンを別の家に押し付けようとした。マシューはためらいつつも、マリラの行動を止めることができなかった。

「大地の子」の養父も、一度、何の縁もゆかりもない主人公を捨てようとした。実際、捨てた。しかし、思い直し、戻った。そこから養父は、主人公のためなら何でもしよう、と心に決めた。

マシューも「大地の子」の養父も、共通しているのは、自分の無力さを痛感していること。自分の力でこの子はどうにでもできる、なんていう傲慢さがまるでない。自分にできるのは、この子の幸せを祈ることだけだ、と考えている。

親である自分の無力さを痛感し、祈るしかないと観念した時、不思議なことが起きる。子どもが成長を見せた時、心から驚くようになる。そして喜ぶようになる。
そして子どもは、親が驚く姿、そして喜んでくれていることが、とても嬉しい。それが未知に立ち向かう勇気を育む。

僕が、私が、新しいことに挑戦し、道を切り開いたら、この人は驚く。そして喜んでくれる。それがエネルギー源になって、さらに成長しようと子どもは嬉々として学び、挑戦する。自分の無力さを知り、子どもの幸せを祈ることが、それらを誘発する。

そして、子どもが「第三者の海」に飛び込んでいくことについて、親は無力。無力を痛感すればこそ、祈るしかない。祈るしかない無力さを知るからこそ、子どもが「お友達ができたよ!」と報告してくれたり、我が子を気遣ってくれる第三者がいると、驚く。そして喜ぶ。

私もYouMeさんも、親だけで子どもを育てられるとは思っていない。たくさんの「第三者」に子どもを育てていただく必要がある、と考えている。でも、赤の他人である第三者に、親は無力。ただひたすら、祈るしかない。祈るから、ご好意を得た時、驚き、喜び、感謝の念が自然に表れる。

すると不思議なもので、赤の他人の第三者も、「こんなことでこんなに驚いてくれたり喜んでくれたりするなら、もうちょっとやってやろう」となってくれるらしい。私もYouMeさんも、ご近所の方々、子どもの同級生、ご近所、学校の先生方のご厚意にいつも驚かされ、感謝している。

「祈る」というと、実に非科学的で宗教的に思われるかもしれない。しかし、自分の無力を知り、子どもの幸せを祈るとき、私たちは子どもの成長や第三者から寄せられる好意に「驚く」し、「喜ぶ」心理になりやすくなる。そしてそれらの心理が、好循環を生むようだ。

赤ちゃんが果たして元気に育ってくれるか不安で仕方なかった、親の心理。それは子どもが成長し、大人になってもずっと続くものなのかもしれない。だとしたら、自分の無力さときちんと向き合い、子どもの成長、幸せを「祈る」のがよいように思う。子どもがいくつになろうとも。

「祈る」からこそ、子どもの成長や能動的にアクションを起こしたことに驚き、喜ぶことができる。赤の他人である第三者が好意を見せてくれたことに驚き、喜ぶことができる。そしてそうした驚きと喜びが、好循環を生むように思う。

親は、祈り、驚き、喜び、感謝するくらいしかできない、実に無力な存在。そのことを自覚し、ひたすら子どもの成長、幸せを祈るしかないように思う。親ができることは、その程度なのかも、と思っている。

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