「ユマニチュードへの道」抜粋

「もし、その方々が異なったケアを受けていたとしたら、その約9割の人は自分の足で立ち、亡くなる直前まで歩ける可能性があったのではないか、と私はこれまでの経験から確信しています。」(「ユマニチュードへの道」p.5)
統計は「過去」しか扱えないことがよくわかる言葉。

彼ら彼女らに対して「自分は相手に対する権力を持っていない」と自覚することの大切さを、つまり、相手に対してつねに謙虚でありつづけることをユマニチュードではもっとも重要だと考えています。
(「ユマニチュードへの道」p.20)

そもそも「自律」とは何でしょうか?
ー自分のことは自分でやるということ?
それも間違いではありませんが、厳密に言えば、それは「自立」です。「自律」とは、より正確には「やりたいことを自分で選ぶ」ことです。
(「ユマニチュードへの道」p.22)

相手をよく観察していくと、患者さんのほとんどが何らかのサインを送っていることに気づきます。あるときは叫びによって、あるときは笑顔によって、あるときは筋肉のトーヌス(筋緊張)によって、自分が何をしたいか、どう感じているかを表明しています。
(「ユマニチュードへの道」p.23)

みなさんは「倫理」と言われて何をイメージしますか?
ー正しい行動をすることでしょうか?
そうですね。もう少し厳密に表現すると、「自分が大切だと考える価値」と「実際におこなっている行動」を一致させるものが倫理です。
(「ユマニチュードへの道」p.25)

にもかかわらず、施設や病院、あるいは家庭などのケアの現場では、ご本人のためにと一生懸命やっていることが、結果的に患者の自由を奪ったり、自律を奪ったり、自立を妨げたり、痛みを強要するケアになっている場合があるのです。
(「ユマニチュードへの道」p.27)

「あきらめないこと」です。 愛、優しさ、自由、自律という価値を手放さずに、相手にしっかり届けられるようになってください。
もちろん、うまくいかない場合もあるでしょう。けれども、→

そのときに「もう何をやっても駄目だ」とあきらめてしまわずに、まだ何か自分の知らない方法があるはずだと考えつづけてください。
(「ユマニチュードへの道」p.28)

その光景を見た看護師さんたちは、驚愕しました。 なぜなら、それまで医師や看護師が、何をやってもまったく反応せず、協力してくれたこともなかったからです。しかしそもそも彼に何かをお願いしたこともありませんでした。
(「ユマニチュードへの道」p.31)

医師も看護師も、私が生み出した状況を見て「奇跡だ」と言いました。でも、なぜ私にこんなことができたのでしょう?
ー偶然・・・でしょうか?
それもそうですね。何より、私自身が病院の文化をまったく知らなかったことがその理由だと思います。→

「患者さんは何もできないから、私たちが全部やってあげる」という病院の文化を知らなかったので、私は彼にお願いし、彼はそれを聞き届けてくれました。
(「ユマニチュードへの道」p.32)

その看護師さんたちも、みなさんと同じように優しい心をもち、優しさと愛という価値を大切にしています。しかし、それをうまく表現できていない。ここに大きな落とし穴があります。
(「ユマニチュードへの道」p.34)

相手から返事がないときは、相手を無視してもいいのでしょうか?
ー違うと思います。
そうですよね。反応がないことイコール相手が理解していないということではありません。私たちが、その小さな声を、身体からのメッセージを、受けとれていない可能性のほうが高いのです。
(p.36)

3万人以上の患者さんを4年間にわたって実際にケアするなか、「こうするとうまくいくな」「こうだとうまくいかないな」という経験を山ほど積むことで生まれました。
ユマニチュードは、(中略)1979年から現在までのケアの現場でのすべての経験から、つまりは多くの失敗から生まれたのです。
p.39

力関係に頼らずに、人を動かす方法がひとつだけあります。何だと思いますか?
ーコミュニケーションをとること?
大事ですね。 ではコミュニケーションによって生まれるものは何でしょう?
ー関係性でしょうか?
そう。 その関係性は「絆」であると、私は考えます。
(「ユマニチュードへの道」p.43)

人間の脳には、他者に出会い、関係を構築する仕組みが生物学的に備わっています。たとえ言葉による通常のコミュニケーションが不可能になっても、この4つの柱を使うことで、相手を再び私たちの世界へと迎え入れることができる、すなわち「第3の誕生 」 を迎えることができるのです。
p.47

幼い頃に虐待などを受け、「他者から認められている」という経験をしていない人は、ユマニチュードの効果が現われにくいのではないでしょうか?
(「ユマニチュードへの道」p.48)

すごい問いだなあ。

私が日本でユマニチュードのケアをしていると、相手のご高齢の方がご本人から私に手を差し伸べ、私をギュッと腕に抱いて、私の頬にキスをするという場面に本当によく遭遇します。
ご家族はその光景を見て、ものすごく驚かれます。なぜならご本人は海外へ行ったこともないし、(後略)
p.48

あるとき、入居して1年以上ものあいだ言葉を発さず、誰ともコミュニケーションをとらない女性に会ってほしいと、ケアに呼ばれました。
(中略)
この女性に別れを告げて部屋を出ると、驚く光景が目の前にありました。車椅子に乗ったたくさんの方々が私を待っていました。みなさんが私に向かって手を伸ばし、「ハグをしたい」「触れたい」と並んでいたのです。
(「ユマニチュードへの道」p.50)

患者さんの前に立つことになるでしょう。そのときに大事なことは何だと思いますか?
ー患者さんの反応をよく見ること?
それも大切ですね。でも、もっと基本的な意識の問題です。私がみなさんにお願いしたいのは、「相手は自分とは違う状況にある」と自覚することです。
p.52

誰からも「あなたは人間ですよ」 「あなたは大切な存在ですよ」と伝えることがなかった結果、子どもたちは「人間らしい」特性を失ってしまい、まるで自閉症のようにつねに身体を前後に揺らす常同運動を繰り返す子どもたちや、身体が拘縮してしまった子どもたちで、施設はあふれていました。
p.54

フランスの医師が孤児院を訪れたとき、彼らはルーマニア側から「子どもたちは全員 が先天的な障害者である」との説明を受けました。 子どもたちの何人かをフランスに連れていって脳のCTを撮ると、確かに前頭葉が非常に萎縮していました。しかし担当した精神科医のボリス・シルルニック氏は、「この子どもたちは、周囲から与えられる情報が極端に不足した、いわば感覚遮断状態で生育されている」「この環境がこの子たちの脳の発達を阻害してしまっている」と主張し、子どもたちをフランスの里親に出しました。
養子に迎えられた子どもたちが愛情に満ちた里親との家庭生活を送りはじめて6か月もう一度のCTを撮ると、大きな変化が起きていました。脳の成長が進んで萎縮は改善しており、自閉症に似た症状も消えていました。シルルニック医師の主張が証明されたのです。
(「ユマニチュードへの道」p.54)

このルーマニアの子どもたちの例からわかるのは、自分ではない他者こそが、その人の脳を発達させるための重要な役割を担っているということです。
(「ユマニチュードへの道」p.55)

脳を発達させる薬剤というものは存在しません。けれども人によるコミュニケーションが、脳に絶大な変化をもたらします。つまり、私たちひとりひとりに、相手の脳を育てるという素晴らしい機能が備わっているのです。
たとえば、私があなたに面と向かって「愛しています」と言ったら、あなたは顔を真っ赤にするかもしれませんね。でもどうして、顔が赤くなったりするのでしょう?
ー言葉に反応しているから?
そのとおり。私からの情報が、あなたに生理学的な変化を起こしているという証です。
(p.55)

コミュニケーションが相手に生理学的な反応をひきおこすという事実は、人間にとってコミュニケーションがいかに大きな意味をもつかを物語っています。コミュニケーションは、相手に生理学的な変化を呼び起こし、失われてしまった「人間らしさ」を取り戻すための重要なツールなのです。
p.56

病気の治療を控えているときに、第一声で「大丈夫ですよ、安心してください」と言ってもらえたら、緊張していた気分がほぐれ「ああ、よかった。この人といれば安心だ」と思えるものです。これは礼儀のためのコミュニケーションではなく、相手に生理学的な反応を呼び起こす医学的介入なのです。
p.56

ナチス・ドイツによるホロコーストの反省を受け、「すべての人間は生まれながらにして、誰からも奪われることない権利を有する」という世界人権宣言が1948年に定められました。誰もが生まれながらに持っていて、誰からも奪われることのないものそれこそが人間の尊厳であると定義されたのです。
p.58

モンテーニュは「尊厳というものは存在しない」と語った人です。動物と人間の違いにこそ尊厳が見出せると考えたカントと違って、モンテーニュは「すべての生き物は等価である」と考えました。
私自身は今、このモンテーニュの考え方に共感しています。
p.59

も、モンテーニュ出てきた!

人はそれぞれに、自分には尊厳があると感じているのだと思います。相手の行為が自分を傷つけるものであるのか、それとも自分を尊重してくれている行為なのかを感じとる。尊厳は人がおのおの持つ主観的な感覚として存在するのではないでしょうか。
(「ユマニチュードへの道」p.59)

私がケアをするときにはいつも、相手の方に「私がやっていることは大丈夫ですか?」「受け入れられますか?」と聞きます。どうしてだと思いますか?
ー相手が本当は嫌がっているかもしれないから?
そう。先ほどお話ししたように、患者さんと私は違う存在です。
(「ユマニチュードへの道」p.60)

だからこそコミュニケーションが重要。これは私たちが相手に伝えるだけでなく、私たちが相手からの情報を受けとれているかどうか、つまり双方向的なものでなければなりません。相手が「どう感じているか」を受けとることなしに、相手の尊厳を守ることはできないのです。
(p.60)

身体的にも心理的にも人間らしく扱われていて、自分らしくいられる。つまり人間であることの「十全性」が守られているとき、そこに尊厳が生まれます。反対に、他者がその人の「十全性」を毀損することで、その人の尊厳を奪うことも可能です。
(「ユマニチュードへの道」p.60)

人は、他者なくしては自分の尊厳を感じられない存在なのです。
(「ユマニチュードへの道」p.62)

私がここにいるのは、あなたがここにいてくれるからです。そしてあなたがここにいるのも、私がここにいるからです。他者に認められ、 他者を認めてこそ、人間の尊厳が成り立ちます。そこには必ず自分以外の誰かとの 「関係性」があります。
(「ユマニチュードへの道」p.63)

人間のあかちゃんは、自分で身の回りのことができるまでに何年もの歳月を要します。それまでのあいだは、周囲から見つめられたり、触れられたり、言葉をかけられて育ちます。いわば、他者に依存して生きている存在です。
あかちゃんのケアをする人も、あかちゃんに依存されることで自分とあかちゃんとのあいだに愛情をはぐくみ、尊厳を感じながら信頼関係を築いていきます。
(「ユマニチュードへの道」p.63)

人は他者から人として扱われることによって、尊厳を感じられるからです。
(「ユマニチュードへの道」p.65)

「この患者さんはどんな人ですか?」と看護師さんに聞くと、どんな答えが返ってくると思いますか?
ーええと、その患者さんの普段の様子などを話してくれるのでしょうか?
そうだったらいいのですが、多くの場合、みんな患者さんの“過去”の話をします。「この方のご職業は学校の先生でした」
p.67

「あなたは人間です」「私にとって、あなたは大切な存在です」と人生の最期の瞬間まで伝えつづけることで、人は人間でありつづけることができます。それを実現ユマニチュードです。
(「ユマニチュードへの道」p.68)

世界でいちばん怖いものは何だと思いますか?
(中略)
私の答えは決まっています。
「違いますよ。 世界でいちばん危険なのはベッドです」
世界中で何千万という人たちがベッドに寝たきりになっています。ベッドに寝たまま清拭され、身体は拘縮し、そのまま亡くなる人たちがたくさんいます。
p.69

過去にフランスがそうであったように、40人もの患者さんがひと部屋に詰め込まれ、ベッドに寝かされ、放置されているとき。話しかけられることも、目を合わせることもなく、立とうしても無理に寝かしつけられるとき。そこに「尊厳」はありません。
(「ユマニチュードへの道」p.70)

「相手の能力を奪う人」になってしまってはいけない
(「ユマニチュードへの道」p.76)

もし、「転倒が不安だ」「これまでのやり方を変えたくない」というケアする側の都合でベッドでの清拭をつづければ、近い将来、この方は自分で立つことができなくなります。
(「ユマニチュードへの道」p.77)

フランスのある施設では、ユマニチュードによるケアの導入によって、ベッドでの清拭を受けている入居者の割合が60%から0%になりました。
(「ユマニチュードへの道」p.77)

1982年頃のことです。
(中略)
とはいえ、当初はお金がかかりますから、新しいオムツを使う施設は限られていました。そういう意味で“におい”が施設の善し悪しを判断する基準にもなりました。その施設の水準は、においを嗅げばわかるのです。
p.80

患者さんも私たちも、医療も科学も、つねに現在進行形で進んでいます。ですから過去のルールに執着せず、間違っていたら修正し、また歩みを進めます。
どんなときでも大切なのは、現時点で最善であることを選択し、これまでの行動をあらためることに躊躇しない勇気です。
(p.82)

個人的な感情はケアの邪魔になるという考え方が主流でした。 プロフェッショナルとして仕事をするためには、あなたの感情を持ち込むべきではないというのです。ケアに専念するためには、相手と距離をとり 、優しさや愛という感情は脇において仕事をすることが正しいと教えられてきました。
(p.84)

「この人はどんな人なんだろう?」「何が好きなんだろう?」
ケアセする人はつねに、こう問いかけなければいけません。
(「ユマニチュードへの道」p.87)

沖縄を訪れた際、入院している高齢の男性が飲み物をまったくとらないために水分不足になり、周囲が心配していました。
(中略)
私はコーラをもう1缶買ってきて、一緒に乾杯することにしました。 すると、彼はうれしそうにコーラで乾杯し、缶に口をつけてくれたのです。
(p.87)

ときどき、「ジネスト先生は歩けなかった3万人の人を歩かせた」と表現されることがありますが、完全に間違っています。私は技術を提供しただけなのです。私が彼ら彼女らを歩かせたのではなく、ご本人たちが自身の足で歩いて、自身の勝利を獲得したのです。
p.89

ケアをするとき、私たちは「自分が相手にケアを提供する」という、こちらから相手という流ればかりを意識しがちです。しかし実際には、ケアを受ける人から私たちという流れで。私たちにたくさんの贈り物が届いています。
(p.90)

「〜してあげる」に通じる話。

私たちが愛と優しさの技術を提供すると、ケアを受けた人からの反応が私たちに贈り物として届く。私はそう考えています。
(「ユマニチュードへの道」p.90)

そうです。人は動物であるとともに、人間に固有のいろいろな特徴を備えています。そうした人間的な特性を考慮しながらケアをする人は、本物のプロフェッショナル(職業人)です。
その一方、動物的な側面だけを見てケアをする人は、人間を専門とする獣医となってしまいます。
p.91

ケアをする側は、自分たちのおこなうケアの意図が、相手の患者さんにも当然伝わっているものと思いがちです。そのため「身体を拭きますよ」と声をかけるだけで、本当に伝わっているかを確認しないまま、行為を開始してしまいます。
(「ユマニチュードへの道」p.92)

私たちが相手のためにおこなっているのにもかかわらず、ご本人にとっては「襲われている」と感じるケアになってしまっていれば、そのとき、ケアをする人と受ける人とのあいだにあるのは絆ではなく、支配的な関係です。
(「ユマニチュードへの道」p.93)

私が今みなさんに「宙返りをしてください」と頼んだら、みなさんはどう感じますか?
―えっ、そんなことできないし、やりたくないなと思います。
そうですよね。「そんなこと、できない」「本当にやるのだったら、ちょっと怖いな」と思ったりもするかもしれません。これが、じつは「立ち上がってください」と言われたときの患者さんの気持ちなのです。
(「ユマニチュードへの道」p.95)

しかし、私たちに技術があるだけでは充分ではありません。それと同時に、相手が「立ちたい」と思ってくれる状況をつくれなければ、立ってもらうことはできないのです。
(「ユマニチュードへの道」p.96)

つまり、立つことによって自信を取り戻せたり、うれしくなったり、何かを見に行ったり、あるいはケアする人が喜んでくれたりするという、「理由づけ」が必要なのです。
(「ユマニチュードへの道」p.96)

何かが生まれるとき、その前段階には必ず失敗があります。うまくいったときに学びはありません。うまくいかないからこそ、私たちはそこから学ぶのです。
(「ユマニチュードへの道」p.98)

私はもともと体育学の教師ですから、病院の病床へ赴いたときは、本当に何も知りませんでした。つまり私が学んできたことはすべて、患者さんたちが教えてくれたものです。
(「ユマニチュードへの道」p.99)

なぜこのやり方では失敗し、なぜあのやり方だとうまくいったのか。大切なのは、失敗を客観的に「観察する目」をもち、その理由を分析することです。「観察する目」をもち、観察した内容についての分析を積み重ねていくことで、次に同様の事態が生じたときにその分析に基づいた新しい試みをおこなうことができます。それがうまくいくかもしれないし、うまくいかないかもしれない。 →

うまくいったときには、分析と対応が正しかったと言えますし、うまくいかなかったときには、新たな学習の機会が誕生したということです。
(「ユマニチュードへの道」p.102)

そういう意味では、本質的な失敗はそもそも存在しないとも言えます。すべては、学ぶための素晴らしい機会でしかないからです。
(「ユマニチュードへの道」p.102)

先ほどお話ししたフランスのユマニチュード認証施設では、寝たきりになる人は1%を切りました。
(「ユマニチュードへの道」p.102)

ユマニチュードを学んで活躍している看護師さんたちに「ユマニチュードで失敗したことがありますか?」と聞くと、みなさん「失敗したことがない」と答えます。
失敗したことがないというのは、もちろん100%何でもうまくいくという意味ではありません。→

うまくいかないことがあっても、仕事に行けば自分のやりたいことを達成できるという現実が、そこにあるということです。
(「ユマニチュードへの道」p.103)

たとえ言葉の意味がわからなくても、言葉を発するときの相手の様子や喋るスピードなどによって、みなさんは「相手が自分をどのように思っているか」「相手が何を伝えたいのか」という感情の情報を受けとります。
(「ユマニチュードへの道」p.105)

みなさんにお伝えしたいのは、私たちにとって「感情」がいかに重要かということです。 大脳皮質が優れている人は確かに素晴らしい医学者になれるでしょうが、よい医師、よい看護師、よいケアの専門職になるためには、大脳皮質だけでなく、感情をうまく使える人になる必要があります。
p.106

もちろん文化的な違いはあります。日本にはじめて来たとき、挨拶の仕方をはじめ、日常的な振る舞いがヨーロッパとはあまりにも違うので、正直とても驚きました。日本でユマニチュードはうまくいかないかもしれないそれが私の第一印象だったのです。
(「ユマニチュードへの道」p.107)

日本のさまざまな場所で講演してきましたが、講演後にはいつも本当にたくさんの方が「ハグをしてもいいですか」と列をつくります。私に触れたいと思ってくださる方が、ものすごくたくさんいらっしゃることに、私は当初大変驚きました。
(「ユマニチュードへの道」p.110)

相手から届けられる優しさと愛の情報がその人に生理学的な変化を起こします。アイコンタクトによってオキシトシンが分泌されることはその一例です。つまり、コミュニケーションとして伝えられる情報が、人に生理学的な変化をもたらすのです。
(「ユマニチュードへの道」p.111)

褥瘡の処置をするときにいちばん大切なのは、愛と優しさをまず届けることです。ユマニチュードを実践するとき、私たちはこの褥瘡を中心に考えてはいません。また、患者さんだけが中央に置かれるわけでもありません。
ユマニチュードはつねに、ケアをする側と患者さんの「絆」を中心に考えます。
p.113

フランスのある介護施設では、ユマニチュードを導入後、ベッドで清拭をおこなってい入居者の割合が60%から0%になりました。 つまり、それまでベッドでの清拭を受けていた入居者の全員が、適切なレベルのケアを受けていなかったということになります。
(「ユマニチュードへの道」p.116)

ユマニチュードを導入すると、ひとりひとりにしっかり向き合うので時間がかかるのではないかと思われがちですが、じつは逆なのです。
(「ユマニチュードへの道」p.117)

私たちの調査では、ユマニチュードを導入したことで、それまで3時間かかっていた仕事が早く終わるようになった、つまり業務時間が約6分の1短縮できたという結果が報告されています。
(中略)本人のできることが増えていくため、実際には従来のケアより時間がかからなくなります。
p.118

ベッドに横たわったままの清拭では骨に体重がかからないため、骨は強くなりません。ずっと寝たきりの人の骨が非常に弱いのは、せっかく食べ物でカルシウムをとっても、尿とともに体外に出てしまうからです。そのため、患者をベッドに抑制している施設では、抑制をしていない施設よりも骨折が多く発生します。
(「ユマニチュードへの道」p.122)

本人ができる動作を代わりにおこなわない。=本人ができる力を奪わない。
(「ユマニチュードへの道」p.123)

患者さんにとって(中略)もうひとつ大きな危険があります。何だと思いますか?
ー何でもやってあげる看護師さんでしょうか?
そのとおり。「ああ、かわいそうに。どうぞ動かないで、私が代わりに全部やってあげましょう」という看護師さんは危険です。
p.124

看護師さんによると、半年前からまったく喋らないと言います。拘縮もかなり進んでいるのもわかりました。
そこで私が「ケアの5つのステップ」(中略)でアプローチしていくと、とても驚いたことに30秒もしないうちに彼女が喋り出したのです。
(「ユマニチュードへの道」p.126)

生後3ヶ月くらいで首がすわると、人は上半身を起こすことができるようになります。上半身が起きているからこそ人は空間を3次元としてとらえることができ、そのおかげでさまざまな概念を理解する知性が発達します。
(「ユマニチュードへの道」p.128)

Q.ユマニチュードのケアに評価基準はありますか?
この質問に対しては、私は答えを持ち合わせていません。ユマニチュードには、数値化された評価の基準はありません。つまり、看護師さんがユマニチュードのケアをするのを見て、「あなたのケアは何点ですね」というような評価基準は存在しません。
p.129

代わりに私がつねに見ているのは、ケアをする人と患者さんとの関係性です。
(「ユマニチュードへの道」p.129)

ケアの質とちうのは、患者さんとケアをする人の「絆」に依存します。2人のあいだにどんな関係性が築かれているかによりますから、看護師さんのケアを見て、「このケアはいい」とか「あのケアは悪い」という評価になり得ないのです。ケアの中心にあるべきは、どんなときも人間関係です。
p.130

ケアは、それだけを切り取って評価したり、語ったりすることができるような静的な対象物ではありません。「ケアの質」を問うとき、そこには必ず相手がいます。誰かと誰かの関係性があります。ケアとは、互いの関係性を介して揺れ動く「動的」なものです。
(「ユマニチュードへの道」p.132)

なかでも重要視されるのが自己犠牲です。(中略)苦しみなくしてケアの実践はあり得ないという素地に築かれた文化が、潜在意識として自己犠牲を迫り、それに慣れていくうちに、自由に考え、行動する力を失ってしまうのです。
(「ユマニチュードへの道」p.146)

お返事が返ってくることで、私は次の会話を続けていくためのエネルギーを得ることができます。(中略)もしみなさんからお返事がなかった場合はどうでしょう?
ー何を話していいかわからなくて、黙ってしまう。
そうです。相手からエネルギーを得られないので、会話はそこで止まってしまいます。
p.167

思わずつかんでしまうのを避けるため、親指はできるだけ使いません。
(「ユマニチュードへの道」p.177)

軽すぎないこと、ある程度の重みをかけることが大切です。
軽すぎるタッチは性的な含みを持ってしまったり、「触りたくないのに触っている」という誤解が伝わるリスクがあります。
(「ユマニチュードへの道」p.178)

褥瘡ができるのは血流の停滞が原因ですから、第1の予防法が「立つ」「歩く」ことです。実際、フランスに現在26か所あるユマニチュード認証施設では、のある人はほぼいません。
さらに、歩くことで腸の動きも活性化されて便秘の解消につながります。
(「ユマニチュードへの道」p.190)

「立つことがこんなふうに身体にいいんですよ」という理屈を細かく丁寧に説明したとしても、それがご本人にとって魅力的なものでなければその人にとっては立つ理由にはなり得ず、無理やり立たせる強制的なケアとなってしまいます。
(「ユマニチュードへの道」p.192)

私たちが立つ理由は、自分が行きたいところに行きたいから、見たいものを見に行きたいから、美味しいものを食べに行きたいからです。立つこと、歩くことは、自分の希望を叶えるための手段なのです。
(「ユマニチュードへの道」p.192)

本来の体重とは異なる間違った知覚情報が届くため、「筋肉にどのくらい力を入れて関節を動かせばバランスがとれるか」という指令を出す脳が混乱するのです。
ですから、本人の身体を持ち上げる立位介助は、脳に誤情報を与えてしまうことになります。
(「ユマニチュードへの道」p.195)

従来のケアの概念では、「立つこと=リハビリ」であり、理学療法士や作業療法士がやるべき仕事だと考えられがちです。けれども、そうではないことがおわかりいただけましたね?
(「ユマニチュードへの道」p.205)

あかちゃんがはじめて立ったとき、大人たちは大喜びして祝福し、写真を撮ったり、みんなに報告したりしますね。人間にとって、立った瞬間というのは非常に特別だということです。
(「ユマニチュードへの道」p.206)

そうですね。私もとても単純に考えています。他の人が自分を尊重してくれる。 そういう気持ちを受けとったときに感じるのが尊厳だと思っています。反対に「誰も自分を尊重してくれない」と感じると、私はとても傷つきます。
(「ユマニチュードへの道」p.207)

私たちは「この人は私の患者だ」と考えてはいけません。 患者さんは私たちの所有物ではありません。ひとりの「人間」として、相手を見るのです。
(「ユマニチュードへの道」p.210)

相手が「歩きたくない」と言うとき、みなさんはどうしたらいいと思いますか?
ー無理強いしてはいけないので、歩きたくなるような気持ちになってもらいたいですが・・・。
それがまさに答えです。では、どうすれば相手に「歩きたい」という気持ちを持ってもらえるのか。
p.210

技術を学ぶ前に、まずは人が自分の足で立つ場合に何をしているのか、よく観察してみることが大切です。
(「ユマニチュードへの道」p.230)

ですから、実際にみなさんに自分で安定して立ってもらうには、本当の体重よりも重い情報を与えます。 少し肩を押さえるぐらいにして、「もっと体重がある」という情報を脳に伝えます。この情報によって、みなさんの脳は「この体重を支えるために、もっと筋肉を働かせなくては」と機能するのです。
p233

誰もが自然だと感じる介助の方法が、じつは間違った情報として高齢者の脳に伝わり、かえって悲劇を生むことがあります。不安定な立位の人に対して、さらに重みをかけたほうが安全だという論理は、自然には考えつかないことなのです。
(「ユマニチュードへの道」p.233)

こうした身体の動きは、患者さんを介助しようとして自然に思いつくことではありませにん。誰かを立たせようとする際には、〝意識して”間違いを犯さないよう援助する必要があります。
(「ユマニチュードへの道」p.235)

ユマニチュードの研修で習った技術を使って出会いの準備とケアの準備をおこなうと、今までになくうまくいくことが大変多く、研修生はとてもうれしくなってしまって、本来何のために訪れたのかを忘れてしまいずっと話し込んでしまいます。
(「ユマニチュードへの道」p.245)

ーケアを拒否する人にも、次回の約束をしたほうがいいのでしょうか?
とてもよい質問ですね。そうです。そのときこそ、忘れずに再会の約束をしてください。 すべてのかかわりを拒否するような方の場合には、ケアに訪れる前に「予約をとりに来ました」と訪ねてみるのも有効です。
p.252

男性が社会的権利を有していた歴史的背景から、女性は「受け入れる」という適性を身につけざるを得なかった、と言えるのかもしれません。男性にはそれがないので、受容が苦手な方が多いのでしょう。→

そういう意味では、どのようにユマニチュードの技法を使うかという点において、性別という要素がまったく影響しないとは言い切れないと思います。
(「ユマニチュードへの道」p.256)

まず、みなさんに覚えておいていただきたいことがあります。ケアを嫌がっている人に、無理強いは絶対にしません。
しかし必要なケアであれば、あきらめないことも大切です。ユマニチュードでは5つの原則を定めていますが、そのひとつは「強制ケアをしない。 しかし、ケアをあきらめない」です。
p.258

私が放射線科医だとして、人工知能の診断のほうが正確だという時代になったとき、私は何をすべきでしょうか?
ー専門を別の科に変更したりするのでしょうか?
そんなことはありません。放射線科医として人工知能にはできないこと、自分にしかできないことにフォーカスするのではないでしょうか。
p.268

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