アマルティア・セン「貧困と飢饉」抜粋

アマルティア・セン氏は「貧困と飢饉」で、飢饉の原因を「権原の欠乏」としてるのだけど、わかりにくい。私なりに言い換えると、
①食糧を自ら作れない
②食糧を手に入れるお金がない
③食糧を保障する制度で守られてない
ために、食糧を手に入れられず、餓死する。


なぜなら飢餓は、既に議論したように、権原によって決まるものであって、食料がどれだけあるかによって決まるものではないからである。
アマルティア・セン「貧困と飢饉」p.11


アマルティア・セン「貧困と飢饉」
ベンガル大飢饉(1941~43年)で多数の餓死者を出したのは、穀物(コメ)の絶対量が不足したからではない。「賃金が少なすぎて食料が買えないから」起きた。


エチオピア飢饉。1972~73年ウォロ州、自給農家が生産量を減らし、蓄えないために穀物も買えずに餓死。
73~74年南部の飢饉は、アワシュ渓谷を外国資本が買い占め、乾期をやり過ごす場所を奪われた遊牧民が家畜の餓死と穀物の入手が困難になって起きた。
アマルティア・セン「貧困と飢饉」


サヘル地域での飢饉では、商品作物への依存を深めたことが、気候変動による経済的変動を増幅する結果となった。
商業的農業経営の地域には、遊牧民が入れなくなるという損害もあった。
アマルティア・セン「貧困と飢饉」p.206~207


1974年のバングラデシュ飢饉は、国全体としては豊作の年に起きた。食糧の輸出入を勘案しても、食糧総供給量は、それまでのどの年よりも大きい。一人頭で考えても。なのに飢饉が起きた。
アマルティア・セン「貧困と飢饉」p.226あたり


最も飢饉の被害を受けた県であるモイメンシン、ロングプル、シレットでは生産量が大幅に上昇している。
アマルティア・セン「貧困と飢饉」p.227


炊き出し所の生活困窮者中最大の職業集団は労働者(四五%)で、わずかな差で農民(三九%)が続いている。
アマルティア・セン「貧困と飢饉」p.231


炊き出しに来た人のうち、土地を全く持たない人々が32%、持ってる人の中で、0.5エーカー未満が81%。
アマルティア・セン「貧困と飢饉」p.232-234


農村労働の米交換比率の低下が起きた。前のように働いても半分の米しかもらえなくなった。
アマルティア・セン「貧困と飢饉」p.235


飢饉は、洪水で食糧生産量が落ちたから(実際には落ちていない)ではなく、洪水で被害を受けた地域ですることがなくなった結果、農業労働を提供することで生きていた人たちの収入の道が断たれたことによって起きた。
アマルティア・セン「貧困と飢饉」p.238あたり


これまでの分析からいやおうなしに言えることは、集計された問題のみに集中して、数百万人ものバングラデシュ人の生存がかかっている権原体系の詳細を無視することの危険性である。人口と食料供給に焦点を当てることは、誰がどれだけの食料を自分のものにできるかを決める実体を覆い隠す作用があるため、とても無害なものとは言えないのだ。
アマルティア・セン「貧困と飢饉」p.241


農村人口の約四分の一は、市場賃金で労働力を提供し、稼いだお金で食料を手に入れることによって生き延びている。彼
らにとって、交換関係の変化は破滅を意味し得る。
アマルティア・セン「貧困と飢饉」p.241


FADアプローチ(食糧生産量の多寡が飢餓の発生を決めるとする考え方)は人々と食料との関係に立ち入らないため、飢餓の因果関係を解きかす端緒をほとんど与えてくれない。
アマルティア・セン「貧困と飢饉」p.249


もし何らかの理由で理髪への需要が落ち込み、床屋が他の仕事やいかなる社会保障給付も見つけられないならば、食料供給に全く変化がなくても彼の食料に対する権原は崩壊するだろう。
アマルティア・セン「貧困と飢饉」p.251


ある国の全人口に対する食科供給量に関心を当てるFADアプローチは、適切に人々を区別することのない大雑把なアプローチである。それ以上にはるかに大雑把なのは、全世界の人口にFADアプ ローチを応用することである。それにもかかわらず、 世界の食料供給と世界の人口とのパランスをとることは、近年大いに注目を集めている。
アマルティア・セン「貧困と飢饉」p.255


権原アプローチは食料生産を関係のネットワークの中に位置づけるものであり、これらの関係のどこかで変化が生じれば、食料生産からの衝撃を何ら受けなくても大規模な飢離が突然起こり得るのだ。
アマルティア・セン「貧困と飢饉」p.256

市場メカニズムが飢饉を解決できないことについての分析はp.258から。

「カタック管区における急を要する穀物需要は、経済学の通常の法則全てからして、より恵まれた他の地域からの供給を生み出したはず」なのだから、そのような食料の移動が起こるべきだったのに、現実にはそうならなかった。
アマルティア・セン「貧困と飢饉」p.259


イギリスとアイルランドの長く、騒然とした歴史の中で、 アイルランドの人々が餓死しつつある時期を通じて、アイルランドからイギリスへ膨大な量の食料が輸出されていたという否定しようのない事実ほど、怒りと両国間の関係悪化を引き起こしたものはなかった

アマルティア・セン「貧困と飢饉」p.260


飢餓による死とは、その社会で何が合法であるかを極端な形で映し出していると言えるのである。

アマルティア・セン「貧困と飢饉」p.265


世界における飢饉の過酷な歴史の中で、検閲を受けない報道が許された民主的な独立国家において飢饉が起こった事例がほとんどないことは、実は驚くべきことではない。この飢饉のない状態は、豊かな経済に当てはまるだけでなく、独立後のインド、ボッワナやジンパブエのような、貧しくても比較的民主的な国々にも当てはまる。
p.302


インドでは、飢饉は独立の直前まで発生し続けた(最後の飢饉は一九四七年の独立の四年前、四三年にベンガルで起こった)が、それ以降は大きな飢饉が全くなかったことも、重要である。独立以来の食料生産の拡大もこのことにプラスに働いたが、決定的に重要な違いをもたらしたのは、政治環境の変化であった。民主的な政治制度、比較的自由なニュース·メディア、そしていかなるものであれ、飢餓(もしくは食料不足の恐れ)の報道がなされれば、政府を激しく非難しようと手ぐすねをひいている活発な野党が存在するために、飢饉の脅威が生じた時はいつでも早急かつ効果的な行動をとらねばならないという強い圧力に、中央と州の政府はさらされてきた。
p.302


活発で積極的な新聞報道システムは、若手エリートたちが作った見事に巧妙な早期警報システムよりも飢饉の阻止に貢献できることが多いのである。
p.303


同様に重要なことは、飢餓と飢饉から人々を救うことに政府が破滅的な失敗をしたにもかかわらず、それに対する対抗的な批判に政府がさらされない状況を、自由なニュース·メディアと野党の欠如が必然的にもたらしたことである。
p.304


飢饉の根絶にもっとも重要な改革はおそらく、アフリカでもアジアでも同様に、民主主義の実践、東縛されない新聞、そしてより一般的には対抗的政治の強化なのである。
p.304

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?