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仏教における「いただきます」の意味

いかせいのち」の実践が「いただきます」

今日は鍋だな。美味しそうな匂いしてる。手を洗ってこよ。うがいもしとこ。美味そうだなー。よし、

いただきます🙏

いただきます?

いつもそういうあなたは、何を誰からいただいているのか、考えたことはあるだろうか。

① 作ってくれた人に感謝

こうを聞くと、よく答えとして返ってくるのが

この食事を作ってくれた人に感謝して、ありがたくいただいているんです

というもの。この場合の「いただきます」は調理してくれたことを労う言葉だろう。

② 素材のいのちに感謝

次に多いのは、

この野菜やお肉にはいのちが宿っていて、私達はそのいのちをいただいて生きているから、感謝して「いただきましょう」

というもの。これも想像しやすい。我々が口に運ぶ食材は、すべていのちある存在である。それらをいただいて、自分は生きている。このことに感謝して「いただきます」というのである。

③ いのちを育んだ環境に感謝する

もう一歩深めると、

このいのちを育んだ人々や、この環境に感謝して「いただきます」

となる。植物や動物や人々が元気に育つのは、大地があり太陽があり水があり、地球並びに宇宙環境の絶妙なバランスのおかげである。いまよりわずかばかり太陽が近かったり、もう少し地球が傾いていたらこうはいかない。

一滴の水には天地の大いなる恵みがあり、一粒のお米には万民の努力がこもっている。一皿の上には大いなる犠牲があり、これら全てに感謝して、「いただきます」

上記は四国遍路などでも用いられる、真言宗の「食前の言葉」だ。とても日本人が好みそうな、素敵な考え方である。

たった一滴の飲水の裏側には、地球環境の奇跡的なバランスが秘められているし、一粒のお米や一斤のパンのために人類が費やしてきた労力は計り知れない。感謝しか無い。

④ 仏教以外の宗教における「いただきます」

これをさらにもう一歩深めるとどうなるか。ほとんどの宗教は、

この世界は何者かによって創造された

とする。

世界で最も信者数の多いキリスト教や第二位のイスラム教では「世界は神によって創造された」と説く。第三位のヒンドゥー教(バラモン教)でも同じく、「世界はブラフマンによって創造された」とする。

日本の神道には国産みの伝承があり、我が国は神によって産み出され、その神の子孫たちが住む土地を、現在では日本と呼ぶ。

このように多くの宗教では「世界は何者かによって作られたもの、与えられたもの」と規定する。

この場合の「いただきます」は、いのちや環境への感謝に加えて、

世界を与えてくれた存在(創造主)に感謝して「いただきます」

と言うのが、宗教的な意味の究極となるだろう。

⑤ 仏教における「いただきます」

一方、仏教の世界観は全く異なっている。

この世界は衆生の業の増上力(しゅじょうのごうのぞうじょうりき。あらゆる存在の行為の結果)によってこれまでも変容してきたし、これからも変容していくと説く。

あらゆる存在のあらゆる行為の結果として、世界が少しずつ変化し、人が住めるようになったり、ならなかったりする。

仏教においては、世界とは、

他者から与えられたものではなく、我々全員がちょっとずつ責任を持って変えている

ものである。世界の主体は、我々だ

そのため仏教的には、「いただきます」というとき、①目の前の料理を作ってくれた人や、②素材そのもののいのちや、③それを育んだ環境などに感謝するだけでは足りない。

これらに感謝した上で、食べ物をいただく私が、世界の主体として善なる自分を生かしていくことを自覚する必要がある。これによってはじめて、いのちの循環が生まれる。

昨今、SDGsという言葉が流行っているが、こういう基本を抑えておけば、間違うことはないだろう。

まとめ

「いただきます」というときは、まずはあらゆるものに感謝して「いただきます」。そして、お腹いっぱいになったら、今日も自分のいのちを生かしていくことを誓う。

これが仏教流の「いただきます」である。

本文に出てきた仏教の世界観については、こちらの動画をどうぞ



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