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夏の夜や鍋

 週間ぶりに恋人に会った。久々に鍋が食べたい、という。
 夏の熱気のこもった部屋で冷たいものばかり口にしていたが、冷房の効いた部屋で熱々の鍋を囲むのもまた至福。
 おなかも冷やさず、ビールも進む。夏の長い夜に食べるキムチ鍋。
 ニラ入りのカット野菜、舞茸、豚の薄切り肉、餃子、豆腐、そしてモランボン(鍋の素)。
 煮立たせたキムチスープにポンポンと材料を入れていく。これだけ。
 カット野菜の袋は封を開け、そのまま鍋へ空ける。餃子も同様。
 舞茸は濡らしたキッチンペーパーでさっと拭いて手で裂く。
 豚肉は菜箸で1枚ずつ剥がして入れていくが、そのうち面倒くさくなり2、3枚入れて鍋の中でゆらゆらと剥がす。
 包丁で切るものといえば豆腐だけ。慎重に刃を入れても、大抵ゆがむ。
 均等に切れているように見えるほうを上にして、そっと豆腐を入れるが、沸騰したスープの熱さに怯えるせいで呆気なく散らばる。
 料理上手な人々がSNSに載せてくれるような、見目麗しい鍋を作れたためしはない。
 それでも、鍋はおいしい。
 近所のスーパーで購入した小洒落た瓶ビールの栓を抜き、乾杯。誰かと食卓を囲む時間が、とても嬉しい。
 そういえば「直箸失礼」と言わなくなった。行儀がよくないので恥を承知で書くが、半年前まではしょっちゅう口に出していた言葉だ。
 物珍しいビールを飲むときに「一口飲む?」とも言えなくなった。
 柑橘の香りがする。甘い香りがする。とてもおいしいビールだ。お高めのビールの感想を、ぽつりぽつりと伝え合う。私たちの生活は確実に変わってしまって、でも、いいほうへ変えていきたい。私たちは今、生きているのだ。
 喉ではなく舌で味わうビール。キムチ鍋には少しもったいなかったか。
 北森鴻という偉大な作家の小説に、香菜里屋というビアバーが登場する。
 置いてあるのは、4種類の度数の異なるビール。気分によって最高12度、最低3度のビールを楽しむことができる。
 12度のビールにいたっては、ロックグラスに氷を浮かべて飲むらしい。えっ何それ、どこで飲めるの。
 ビールっておいしそうだな、と初めて思った小説であり、私はおいしそうな料理が出てくる小説が好きなのだ、と初めて自覚した1冊でもある。
 香菜里屋にキムチ鍋は出てきただろうか、ちょっとイメージできない。

 ――「今年最後の冬瓜を、挽肉と煮て葛でとろみをひいてみました。コンソメ味ですから、きっとビールに合いますよ」(北森鴻「花の舌にて春死なむ」講談社文庫より引用)

 小説で最初に登場する料理だ。マスターが作る料理は手が込んでいる。いや、私のキムチ鍋にもモランボンの人の愛が込められている。恋人と一緒にキムチ鍋を食べたいという私の愛(もしくは食欲)も。
 料理はほとんどしないが、煮込み料理を作ることだけは楽しい。一人鍋を作ってみるのもいいかもしれない。が、誰かと一緒に食べるからおいしいのかもしれないと、発泡酒を飲みながら独り思う今宵。

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