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濁浪清風 第40回「場について」⑩

 「場について」⑧において、浄土を建立するのは、衆生にそこへ生まれたいという意欲、すなわち欲生心(よくしょうしん)を呼びかけ、それを通して如来の大悲を現実化しようとするのが教えの意図である、といった。親鸞はその如来の強い意欲を「如来招喚(しょうかん)の勅命(ちょくめい)」であると押さえているのだ、と。そして「場について」⑨で、その浄土の功徳(くどく)を、不虚作住持功徳(ふこさじゅうじくどく)から頂いて、一如(いちにょ)の「大宝海(だいほうかい)」と押さえ、それを名号に包括して、名号を信ずるものに、その功徳を恵もうとしているのだ、といった。

 その名号は、単なる仏の固有名詞ではなく、「南無」を含んだ六字の名であるとされ、「帰命(きみょう)」の意志が如来の側からすでに名号に封入されているのだ、「発願(ほつがん)・起行(きぎょう)」が衆生へと廻施(えせ)されつつあるのだ、それが阿弥陀の名言(みょうごん)なのだ、というのである。それを「本願招喚の勅命」であると親鸞は言う。すなわち、浄土への招喚の意欲が、名号の内にすでに「招喚の勅命」としてはたらいているのだというのである。このことはつまり、心理的な「望郷の念」を衆生に発起(ほっき)せよと命じているのではなく、「存在の故郷」というべき「大涅槃」の境涯を、衆生の根源に如来の大悲がすでにして恵み続けているという形が、「名号となった如来」なのだと、言いたいのであろうと思う。

 こうして、大慈悲をあたかも衆生を包む「場所」のごとくに表現した教示の内実を、仏語の受け止めによって、親鸞は次のように解読した。一如宝海より発起した法蔵菩薩は、「兆載永劫(ちょうさいようごう)の修行」を持続する主体となり、その因位(いんに)の修行の果報を成就して、名告(なの)りとなり、名号(みょうごう)となるのである、と。それは形のない「無限大悲」の衆生への限りなきはたらきを、名をとおして衆生に覚知させることだ、というのである。そういう内容を自分のための教えであると頷(うなず)くものを、本願の信心というのである、と。

(2006年9月)