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濁浪清風 第36回「場について」⑥

 『浄土論』を読んでいると、如来の悲願を象徴している形が、「荘厳(しょうごん)功徳」であるというのだが、実はその功徳とは、「一如(いちにょ)の功徳」だと親鸞は言う。一如の真実とは、一応そういう言葉で表現されてはいるが、その言葉が指示することを理解しようとすると、そこには大きな断絶がある。言葉は、普通には日常の意識や感覚・感情で、だれでも追体験できることを前提に、語り出されているのだろう。ところが、仏陀の言葉は、もともと不思議な感覚の現前とともに沸き上がってきた「存在の智慧」の表現である。普通の意識を破って、それを「妄念(もうねん)」と自覚させるような深層の智慧ともいうべき位相(いそう)から、妄念に苦しめられる意識を破るべく語り出された言葉である。

 その言葉を、単なる一般的な概念操作のレベルでわかろうとするのが、私たちの立場である。もちろん、私たちのような苦悩の衆生(しゅじょう)に語りかけるために、仏陀は言葉を発せられたのであるから、まったくわからないわけではない。しかし、妄念を晴らさなければ、本当にはわかったとはいえない。そこに、断絶を渡す橋が欲しいのである。言葉が橋となろうとするのであろうが、実はそれは私たちのなかに、この断絶を超えようという意欲が起こることを要求しているのである。

 普通には、人間社会をどのように生き抜いていこうか、という方向に私たちの意欲が動いていく。この社会の大きな作用に引っ張られて私たちの意欲が動かされているとも言える。ところが、仏陀の教えは、この人間の意欲の方向を「煩悩(ぼんのう)」にまつわられたものと言う。つまり、「名聞(みょうもん)・利養(りよう)・勝他(しょうた)」というような、この世の価値を追い求め、この世で勝ち抜く方向の意欲だというのである。 仏陀が私たちに呼びかける方向は、それとは違う。これが、そもそもわからないということになろう。その方向を呼び起こす社会、それを諸仏(しょうぶつ)世界という。諸仏世界のはたらきは、私たちがこの世間を突破するような方向に、なにか立ち上がらされるときに感じ取るものである。だいたいこんな表現も一般的には、わからないと言われてしまいそうである。

(2006年5月)