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濁浪清風 第30回「他力の努力」⑨

 先回、仏教の教えの根本に「無為法(むいほう)」ということがあると述べた。これは、変わらないもの、あるいは時間を超えたものである。ということは、時間を生きている人間が、そこを超えようと本当は求めているのだ、ということである。これは絶対の矛盾であるとも言えるし、不可能なのだ、とも言える。不可能なのだけれども、本源の深みから要請しているというのである。つまり、人間存在は、有限の時間を与えられて生きているけれども、それを突破したいという深い祈りをいのちの根底に付与されているのである。それを「一切衆生悉有仏性(いっさいしゅじょうしつうぶっしょう)」と『涅槃経』は言うのであろう。

 この深い願いを実現する方法を、仏陀は発見し、それを言葉として伝達しようとされたのではなかろうか。言葉は一応、有為法(ういほう)を言い当てようとするものである。すなわち、人間の意識にのぼることを自己確認し、また他の人に伝達したいというところに、言葉がはたらいている。言葉は発信する人間から出るが、その意味はその個人を包む共同体に共通のものである。そうでなければ、意味を伝達できないことになる。だから、言葉は単に移りゆく個人の「有為法」でもなく、かといって万人共通の永遠不変の「無為法」でもない。人間社会も変わりゆくものであり、したがって言葉も時代や社会とともに変わりゆくものであるからである。それで、言葉は「不相応法(ふそうおうほう)」という領域にあるとされる。人間の意識とぴったりするのでもなく、かといって「超越的」なものとして、人間からは絶対に触れられないというものでもない。

 弥陀の本願が、「仏名(ぶつみょう)を思い起こして欲しい」(念仏)という方法を選び取って、苦悩の衆生(しゅじょう)に呼びかけるのは、この矛盾的な要請を個人のうえに事実化するための大悲の配慮ではないかと思うのである。個人の体験に直結することは、有為法のレベルに落ちることになる。しかし、個人と無関係なら、根底の要請に応答することはできない。この隘路(あいろ)を、言葉のはたらきに信頼して、「仏の名(みな)」という言葉を選択したのではないか、と思うのである。

(2005年11月)