如来のまなざしと人間のまなざしー見るものから観られるものへー
「人間がまなざす」ということについて、考えさせられる文章があったのでメモしておきたい。
大竹氏、松原氏は、『現代の不安を生きる』の中で、視線には所有の意味があるとサルトルが指摘しているという。確かに、視線は一種の暴力にもなりうる。「パノプティコン」は一方的に監視するという牢獄であり暴力である。現代の学校では牢獄のシステムや知見を利用している。しかし、また眼差しは「愛」でもある。幼い子供は親に見られている中で安心できるのである。
ところで、阿弥陀如来の衆生の見方は「覩見」であるといわれる。「覩見」の「覩」とは、「よく見る。目をとどめてはっきり見ること。ふみこんで見る、細かに観察すること」である。阿弥陀如来という存在は、あらゆる存在の生の姿を見、すべての衆生が苦しむ元を抜こうとしたといわれている(「もろもろの生死勤苦の本を抜かしめたまへ」『無量寿経』(『註釈版聖典』p.14)))。そして、私たちは阿弥陀如来に見つめられることに不安を感じないのは、如来という存在が、四無量心と呼ばれる「慈悲喜捨」の心を完全に備えているからである。
「慈悲喜捨」(四無量心)とは
慈とは生けるものに楽を与えること。
悲とは苦を抜くこと。
喜とは他者の楽をねたまないこと。
捨とは好き嫌いによって差別しないこと。
である(『岩波仏教語辞典』第二版)。
「捨」とは執着を離れることである。阿弥陀如来は執着を離れて私たちを見つめているのである。だから見られていていやではないのである。
上の親鸞の文章をみると、衆生をみそなわすのが如来である。(念仏の衆生という言葉も興味深い。念仏する者が衆生ということであろう。)また、『涅槃経』の引文では、如来は衆生のために説くのであり、自分の名利のために説かないという。ここは考えさせられる。如来のまなざしと、人間のまなざしでは質が違う(エゴが入っていない)というのだ。
非常に失礼な言い方かもしれないが、人間の目線はたとえそれが善意であっても、いつ「執着」「支配」に転ずるかわからないという性質を持っているのであろう。例えば、親が子どもをみつめること、それは大切だと思う。しかし、例えば子供をいつも監視することになればこれはあっという間に暴力に転じる。そういうことがないとは言えないのではないだろうか?例えば親が大人になった子供を自分の視界に常に入れておこうとすれば、それがたとえ愛情から出ていたとしても、子供にとっては非常に息苦しいものになってしまう。そこにはやはり、上に指摘されているように所有というモーメントがある。これが他人の男女であれば、常にお互いを監視下に置けばあっというまにストーカーなどになることは明白であり、そういう事件がまま起きている。
そして、同じように、人間がまなざすところというのは必ず「所有」に転落していくのではないだろうか。そして、人間はまなざした対象を固定化し、所有していく。まなざした瞬間にそうなってしまう。だから、たとえ「浄土」であっても、「仏教の教え」であっても、人間の対象になった瞬間にそれは、妄念妄想がどこか入ったものになってしまうのではないだろうか。このことは京都大学の内記氏の、「親鸞における浄土の問い」という論文を読んでいて教えられたことである(本当に、すごい論文であった)。
浄土とか如来は、私たちが見つめる対象にしたとたんに仮土とよばれるような、人間の妄念妄想の対象になってしまうのではないだろうか。
そこに問題性を見たのが親鸞であった。
そこにも、衆生と仏の方向性の転換がある。
浄土から見つめられるのである。仏様から見つめられるのである。
覩見されるのはあくまで我々であり、浄土との関係が変わるのであろう。
悲しいことに私たちの眼差しは毒を含んでしまう。しかしその悲しみをくぐって如来から眼差されるものとして自己を見出す。そういうことが真宗の方向性ではないだろうか。
これは尹さんから聞いたことであるが、目は脳から直接つながっているのだそうだ。眼だけは脳が露出した部分だそうだ。それほど脳は我々の思考と直接につながっている。だからこそ目は雄弁に語る。眼差したものすべてを、取り込んでしまうという人間の悲しみがある。その悲しみというのは自分流に解釈し執着してしまうという悲しみである。
しかし、わたしたちは、また眼差さざるを得ない存在でもある。社会生活において眼差しは不可欠なものでもある。如来からの慈悲喜捨の眼差しに眼差されるなかで、自らの眼差しの暴力性を知りながら、有限の眼差しを向けていくことしかできない。しかしそれは常に如来の眼差しに包まれてある、悲しみにおいてあるのである。そのことを潜って自己の眼差しの限界性を知りながら眼差しを振り返りながら生きる生き方が与えられてくるのであろう。
(終)
〔参考文献〕
参考資料 メモ
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