今日のことば

安田理深先生の『信仰的実存』という本を読んでいる。
心に残った言葉があったのでメモしておきたい。

一人前なら、他と交わることに依って、一層一人です。だから一人であることは、他と交ることを否定せない。真に一人であるものが他と交ることができる。他と交ることの出来んものが人と一緒になれば、利用するだけです。

安田理深『信仰的実存』文栄堂、1975年、p.81

「真に一人であるものが他と交ることができる。他と交ることの出来んものが人と一緒になれば、利用するだけです。」この言葉が非常に重い、私たちは本当の独立者になれない。独立していないのに、寂しいからと言って人と交わると、必ずそれは利用になっていく。これは真理である。

こういう言葉があります。「摂為自体、共同安危」。摂して自体と為し、安危を共同する。自己に摂して自己自身となす。外からきたものを反って内に摂して、そして自己自身となす。そしてその摂せられたものと。安危というのは安らかであるとか危いとかいうことですから、恋愛の感情なんかもそんなものかも知れんですね。<あなたとならばどこまでも>というようなものです。そうでしょう。行く末は知らんけれども、ああいうときにこの浮き沈みが安危ですね。その浮き沈みを共にするという。そういう意味ですね。安危を共同する。まあその≪浮いたか瓢箪≫の恋愛では皆んな笑ってしまうけれども、まあ言ってみれば、運命ともいえますね。運命を共同する。共同運命ですね。与えられた身体をもって自己自身をなし、その身体と運命を共にする。まあそういうところに非常に厳粛なものがあります。
 こういうものこと、昨日申しました様に真の〈利他〉という。真の意味の愛というものが語られております。摂して以て自体となし、そしてそれと運命を共同すると。それこそ〈真の愛〉というものでしょう。愛でしょう。大悲というもんでしょう。
 これは〈無の愛〉です。〈願の愛〉です。願というのは先にいった様に無我性が願の自性です。願は自性を持たんのですね。願は自性を持たぬ無自性です。だからして身体を以て自性とするのです。自性は自体と同じ事です。摂して以て自体となす。本願というものは自己がないのです。自己が無いからして、身体を以て自己とする。身体というところに現実に苦悩して生きておる人間がある。願には自己が無い。一切衆生を以て自己と為す。そしてその一切衆生と運命を共にする。願は自己自身を持たぬ。かるが故に一切を以て自己と為す。私は、無ということを言ったニイチェのニヒリズムというものが、無ということにどれだけ徹底したものかよく知らんですが、まあニイチェもそうだし、今言った、空とか無とかいうことは縁が遠いことの様に思われますけれども、こういうものが人間の〈孤高性〉です。孤高ということ。如何に身体を持っても身体を超えておる。そして身体を持っておる。これが如何に他と交わっても自己を失わぬ。自己による、絶対的自立的自己というものにはその孤高性があるのです。一人という、「我一人」、「親鸞一人」という言葉には一つの孤高性というものがあるのです。それは孤独性。孤立性ではなく独立性。人から孤立するのではなく一切から独立しておる。独立しておる様な自己、それが身体をこえて身体を持つ自己でしょう。こういう様に、独立性というものには一つの孤高性というものがあるのです。孤高性。その孤高性というものが、そういうものが信仰の純潔性というものの基礎となる。信仰というものが純潔である。それはこの無というところに根拠がある訳です。無というものに立たなければ人間の孤高性というものは成り立たない。
信仰の純潔性の原理はそこにある。そういうものでない信仰は皆品位を下げて来る。世間によごれる。つまり〈還相〉という様なものが出て来ない。還相すれば元の木阿弥になってしまう。孤高性の基礎はこの空無我性というものにあると思います。独りという時には一つの高貴性というものがある訳です。そういうものは、やはりニイチェの思想にも通ずるものです。深い意味の哀愁を湛えておる。高貴なる哀愁を湛えておる。だからどんな人間でも世間に於てある存在ですから、世間の中に埋没しておるが、その世間に於て埋没しておる人間が同時にその埋没しておる世間を失わずして、然も世間を超えて高貴である。信仰だけが人間に絶対尊厳な高貴性を与えるものであります。学問やイデオロギーという様なものに侵されない高貴性、そういうものを与えるものですね。そういうものの根拠は空無我性にある、と言わなければならん。一寸何か底の有るものに立っておると、無自性じゃない。有自性の原理に立っておる人間は独立性を失って、孤立性になる。孤独性というけれども独のない孤になる。人間が孤立するのです。孤立は反逆者でしょう。孤立性を保とうとすると人を避けんならんし、現実性を得ようとすれば濁らんならん。底の有る処に立てば、人間は如何に高貴ならんと欲するならば僅かに傲慢であることによって高貴になれる。人をさけてね。そして人に交われば下品なものになってしまう。広い意味の商売人になってしまう。商売人というだけの商売人じゃない。市場的人間ですね。坊さんだろうが何だろうが皆商売人でしょう。品位を落とした場合は。信仰でも商売になるんです。本願寺という様にね、番頭もあるし、支配人もおる様な話になるのです。皆これは一つの商売化するのです。坊さんというものに品位の無いのは皆商業化しておるからです。何か、話でも何でも品位がないということですね。そういうものが出て来るのです。品位をつけようとすれば、何か高踏的になって威張っておるという様なことになる訳です。この高貴性というものがないというと、所謂自立的自己というものにはならん。「親鸞一人」という様なね。あの法蔵菩薩の精神というのは高貴性です。摂して以て自体と為し、安危を共同する、というのが法蔵精神でしょう。

安田理深『信仰的実存』文栄堂、1975年、pp.101-105


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?