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日記2024.3.6 AI、良い言葉に気をつけたい

今朝ふと思ったこと。
Windowsを使っていると、パソコンを開いた時に、きれいな自然の写真が現れる。
昔から、これはWindowsの良いところだなと思っていた。
今朝は、田んぼの写真が現れた。
しかし、その時自分の脳裏に浮かんだのは、
「これはAIが作った写真ではないか?」
「これは本物なのか?」
というものだった。
これは本当の写真なのだろうか…ということが、一番最初に自分の頭に浮かぶものになってしまっていた。
写真を見て、綺麗だな…の前に、これAIが作ったニセモノではないか?が一番最初に思えてしまうようになっていた。
このこと1つ取っても、本当に便利になった社会はいいものなのかと考え込まざるを得ない。
おそらく将来的には、この感覚も変わっていくのだと思う。
本物だろうがニセモノだろうが、綺麗ならいいじゃんという風に。

しかしここに、どう言語化したらいいのかまだわからないのだが、ものすごく、失ってはならないようなものを見失ってしまっているような感覚がある。それで、人はいいのかというような。

本物ではないという感覚がいつもちらつくということは、社会や人や価値に対する、根本的な不審がいつも付きまとうということになる。それは、社会や人を信じられないということにもつながるし、それは自分のことすらも信じられないということにつながると思う。もっと自分が分からなくなっていくような。
仏教の五戒に、不妄語戒(嘘をつかない)、不偸盗戒(盗まない)ということがある。これは、常に噓をついたり、つかれたり、あるいは、他人の物を自分そのものとしていくことで、自分が分からなくなり、生きづらくなってしまう。だからやめなさいということだとも考えられるだろう。そうすると、やはり私たちの生き方全般が、AIなどの急激な進化により、五戒の逆方向へ無自覚のまま進んでいるとも言えるように思う。

教壇に立っていても、数年前より子供たちは大人を信頼していないなという感じが、グッと上がっている。これは様々な理由があると思う。そのことに上記のことも関係している予感がある。

人類学者の中島智氏が、以下のように言われていたことが心に響いた。

AI生成によるベタ褒め文章やねぎらい文章を提供するサービスで、知性派タレントが号泣するのをみて、まるでAIが書いたような「大丈夫、きっとうまくいく」とか「無理しないでね、約束ね」といった相手を無視した人生訓を垂れ流しているアカウントに異常なフォロワー数がいることの理由がわかってきた。
聞きたい言葉を聞きたいひとが大勢いらっしゃるということ。たとえそれが無責任な、個別事情を無視したものであっても、むしろその無責任さに癒やしをみるのかもしれない。

中島智、Xのポスト、2024年3月6日

現代では何となくいい言葉が溢れている。そしてそういう何となくいい言葉がヒットしてしまう。
中島氏は、AIが作っても人は感動することを冷めた目で見ている。人生訓を垂れ流すアカウントが異常なフォロワー数がいることの理由が分かったという。また、人は聞きたいことを聞きたいにすぎないということ。あるいは、誰に向けたものでもない、無責任な言葉に癒しを見ることもあるのかという。しかし、中島氏はその事全体を危ういものとして見ていると思われる。

この言葉に非常に考えさせられた。というか、自分も昔、Twitterをやっていたが、仏教の言葉を無責任な人生訓にしていなかったかと思う。個別事情を無視した人生訓にしていなかったか。現代の悲劇は、釈尊や親鸞の言葉すらも、そのような人生訓にしてしまうほど、人間の自我が強くなっているということであろう。しかもそのことに無自覚であり、親鸞の言葉すら個別事情を無視した人生訓に書き換えてしまう。そしてその程度のことを伝道だと思ってしまっている。それを「わかりやすく」しているなどどいってしまう。しかしほとんどの場合は、本来あった言葉の背景を漂白して、上書きしてしまっている。そういうことは、言葉の再解釈とはとても言えないレベルの営みである。そういうものであふれている。非常に軽薄なのである。センスという言葉は適切でない気がするが、言葉を使うものとしては自分にはセンスがなく、軽薄なのである。

釈尊や親鸞の言葉は決して個別事情を無視した人生訓などではないはずだ。まず問題関心が違う。生きやすさとか、人生の潤滑油とか、そういうものとは全く違う。人間の根本問題を掘り起こすような言葉である。しかしこのことをもう少しきちんと考えなければならないし、論理だてて言語化する必要があるのだろう。

(終)





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