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マンガ表現と仏教の相容れなさⅢ(仏教マンガの問題点再考③)

今度、ある場所で、漫画と仏教についての講義をしなければならない。その準備のため、思いついたことをここに忘備録としてメモしておきたい。

仏教の教義をマンガにしたものがなぜあまりないのか?と若い頃の自分はいぶかしく思っていた。教えの中身を知りたいのに、教えの中身を説いてくれるマンガはあまり無い。仏教に関する漫画があるとしても、それは仏教に関する文化やあるある話を扱う位であり、ど真ん中の教えを説いてくれるマンガはあまりない。そのことをいぶかしく思っていた。しかし私がいわゆる教えの内容や、仏典で書かれている言葉をマンガ等に引用し、ある意味デフォルメして書く中で、何か言いようのない違和感を感じるようになった。そしてなぜ今まであまり、仏教を題材にしたマンガが描かれてこなかったかがわかるようになった。
それはやはり、マンガにすることの難しさを仏教という教えは帯びていると考えるのである。

わたしたちが教えを聞いてきたとき、そこにはいつも祈りや、悲しみや、姿勢を正されるような空気があった。何かただならぬものを聞いているという雰囲気の中に、教えがあったように思うのである。

すくなくとも、多くの人たちが大事にしてきたものなのだなという畏れを持って聞いていたように思う。聞かざるをえなかった。そのような雰囲気の中でよくわからない教えを聞いていて、ほとんど内容は分からなかったけれどもたまに「はっ」とすることがあった。
そこで語られていることは、日常の損得・勝ち負けの話ではない、何か厳粛なものであるということは感じた。考えてみれば仏説が説かれて来たところには、常に悲しみ嘆きや祈りがあった。『観無量寿経』における韋提希の釈尊への説法の要請もそうであろう。或いは法蔵の物語、阿難と釈尊の対峙においても、そこには人間存在をかけた聴聞への願いがある。そのときその場にあるのは、手っ取り早く答えを知りたいなどという(情報を仕入れようという)態度とは別のものではなかったか。
何か大切なことを聞かねばならないという深い願い。
そこには合掌や、念仏、祈り、沈黙があったはずである。
しかし、片手でスマホをなでながら、マンガにされた仏教の言葉を読むとき、そこにはそうした要素が欠けていることに気づかされる。
ある意味で、この世の世俗の情報を知る延長で仏教の言葉に出会うのである。そこには、何か今から厳粛なものに触れるのだという恐れが全くなく、一直線に世俗的な情報として教えが消費されていく。
私が子どもの頃、ある意味で法要の場は、世俗の中にありながら、何か質の違う宗教空間・聞法空間に連れ出されて、そこで文字情報だけではない、様々なにおい、雰囲気ーーそこには祈りも入るーーがあった。そういう空間の中で仏様の話を聞いた。そのことを通して、仏教を聞くのと、そうした空間抜きで仏教を聞くのは違いすぎると思うのである。
マンガになった仏教の話を、寝転びながらスマホで読むということ、そのことそのものが仏の言葉を軽く扱うことになるのだと思う。
厳粛な教えを、もうその他の情報と同じように聞いてしまうという問題がある。
情報によって私たちは救われるのだろうか。簡単に分かる情報で私達は救われるのだろうか?私たちは本当に分かりやすい教えで救われるのか?分かりやすい教えを期待しているのだろうか。もう分かりやすさに辟易しているのではないだろうか(我々は伝わる伝道とか、わかりやすい伝道ということを本当に考え直さないといけないのではないか)。
釈尊や、法蔵菩薩は、人間を分かりやすいものとして捉えなかったのではないか。一人一人と向き合い、充全に時間をかけて一人一人と向き合い、教えを説いた。お前はそんな分かりやすい単純な存在ではない。もっと複雑な存在であると一人一人と向き合った時に、自己の複雑さ厳粛さを見出した、阿闍世や韋提希は救われたのではなかったか。分りやすい説法で短時間に救われたのではないのであろう。
筆者は、SNSで展開されるような、非常に雑に仏教の題材が扱われる時非常にショックを受ける。つめたい汗が出る。何かやるせない気持ちになる。それは、過去の人たちが大切に扱ってきたものが、何か非常に軽い、ネタの一つとして消費のシステムの中に入れられ、あっという間に忘れ去られて行くからである。そのような態度や、そうしたものが、「いいね」とか「バズる」の価値観に入れられたとき、私はとても恐ろしい気持ちになる。人々の分かりやすい・役に立つとか・感動したという部分を刺激するようなコンテンツを作れば一時的にバズったり、閲覧者は増えるであろう。しかし、仏教はそうした人間理解とはまるで逆の方向を見つめてきた教えのはずである。私がもし仏教に何かを求めてきたとしたら、本当に人間の厳粛さを見出しているという一点である。
わかりやすいとか、楽しいとか、おもしろいとか、感動した、そういうことに惹かれて仏教を求めたのではない。何か人間の厳粛さを見出している言葉や僧侶の姿にであい、この人たちが出会った世界に私も出会いたいと思って仏教を聞き始めた。そして聞くことそのものの中に、人間を本当に大切にする営みが現れてくるのであった。

現在、マンガは非常に、読まれるコンテンツと認識されているため、おそらくこれから、仏教を題材にしたマンガも増えてくるであろう。寺院もSNSなどを活用すると思う。しかしそのとき、本当に分かりやすい、感動したというコンテンツのフォルダの延長に仏教の教えを入れていいのかは、よくよく考えなければならないように思う。むしろそのことで悲しむ人が一定数いるのではないかと考える。マンガという表現を使いながらも、私達が過去から地続きで教えを伝えるということは可能なのだろうか。恐らくそこには、非常に逡巡することが必要だと思う。畏れの中から一筆一筆書かれるものだけが・大切に紡がれるものだけが誰かに何かを伝えるように思う。その畏れを無くせば、それは一つの情報コンテンツとしてあっという間に消費され、いいねの海の中の藻屑となるのではないか。
しかしそのように、何か人間の態度次第によって伝わるものと伝わらないものができると考えること自体が驕りなのだろうか?

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