毎田周一の文章を読んでいるが、かなり難解でわからない。
毎田は学問的に真宗・仏教について学んでいるわけではなく、文章を読んでいると、概念規定などをすっ飛ばして自分の直観で書いているように思う。そのため、ついていきがたいというか、その意味を想像せざるを得ないところがたくさんあるように思う。
また、厳しい自己確立を迫るような文章に感じられ、現在の私たちがよむと、かなり厳しいと感じるし、何か「死」とかを簡単に言いすぎなのではないかと感じられる。「死」という概念を安易に使っているように感じるのだ。しかし、それは毎田の思想課題を理解していないからなのだと思う。この時代独特の思想的背景もあるのだろうけれども、そうした前提知識が自分にもないため、とにかくよくわからない。
今日は「死の象徴するもの」という文章を読んだ。
毎田は往生を三つの意味でとらえているようである。
まず、①この世では悟りを絶対に開けないという「懺悔」が往生
死なないと仏になれない自分であると教えられるのが往生だというのである。これは何となく、理解できる。しかし、どうしてそれによって生が転換するのかが、よくわからない。非常に直観的な文章だと思う。
②に、「死ぬまでは如何ともする能はざる煩悩具足の凡夫であるといふ認識」
これも、①とよく似ていると思うさらに、毎田は、
と、述べる。煩悩具足の凡夫と認識させられると、そのようにあらしめる絶対の生命が承認されるというが、これもなぜそういうことがおこるのか、また一体どのような事態なのかが、よくわからない。生が転換するというのだが。どのようなことなのか?
第③に、「死」は象徴であり、譬喩であるという。
やはりこれも理解しにくい。しかし、毎田は明らかに「往生」を現在のこととして語っている。しかしそれを同時に「死」と呼ぶのである。
毎田の往生理解はやや混線しているように思うのだが、どうだろうか。今日土井先生の本を読んでいたら、次のような文章があった。
土井先生の意見に首肯するところである。やはり、親鸞の上では往生はこの世の命を終えるという意義を外してはならないと思う。しかし、往生は点でとらえるべきではなく、線的にとらえるべきだと思う。往生が始まるのはこの世であるが、往生を「とげる」のが命終のときと考えるのが穏当ではないだろうか。とはいえ、この辺りすら自分はよく分かっていないので、確証がない。せめて親鸞の文章の上で本当にどうなっているのか。もう少し勉強したい。その上でもう一度考えたい。