毎田周一の言葉⑶ 往生・死について

毎田周一の文章を読んでいるが、かなり難解でわからない。
毎田は学問的に真宗・仏教について学んでいるわけではなく、文章を読んでいると、概念規定などをすっ飛ばして自分の直観で書いているように思う。そのため、ついていきがたいというか、その意味を想像せざるを得ないところがたくさんあるように思う。
また、厳しい自己確立を迫るような文章に感じられ、現在の私たちがよむと、かなり厳しいと感じるし、何か「死」とかを簡単に言いすぎなのではないかと感じられる。「死」という概念を安易に使っているように感じるのだ。しかし、それは毎田の思想課題を理解していないからなのだと思う。この時代独特の思想的背景もあるのだろうけれども、そうした前提知識が自分にもないため、とにかくよくわからない。
今日は「死の象徴するもの」という文章を読んだ。

「死の象徴するもの」
「往生」とは如何なることであるか。私達が「死んで浄土に生れる」といふことである。それに三つの意義がある。
 先ず第一に、それは私達がこの世に生きてゐる限り、この肉体を具へてゐる限り、遂に愛欲・名利を脱却し得ないといふ、痛烈な「懺悔」である。この懺悔のある限り、遠く寿命の終わるを待つまでもなく、即今唯今の「死」である。そこに現在に於ける私達の生の「転換」がある。これ往生である。
 第二に、それは死ぬまでは如何ともする能はざる煩悩具足の凡夫であるといふ認識である。この徹見は、この凡夫を何んとかしようとする努力の抛棄となる。不可能の前に手をあげるのである。即ち現状の絶対承認である。即ち人間的生の是の如きのみなる、「如是」の措定である。この絶対的事実の前に、自力(倫理的努力とその可能性の前提)を抛棄せしめられること、自力の喪失である。ここにこの煩悩具足の凡夫を、かくあらしめる絶対の生命が承認される。―――自力の完全喪失による絶対的生命の事実の承認といふことは、喪身失命のものの、絶対生命の中での蘇生である。死して生きること、これまた生の「転換」であり、往生である。そして現在の瞬間のことである。
 第三に、「死」とは、寿命尽きて死ぬるといふその死とは、一種の譬喩なのである。何ものかの象徴である。それは死に切ることである。自らのうちに何等の価値あるもの、存在意義あるものもなくなることである。自らとして主張すべき、貫徹すべき、肯定すべき、何ものもなくなることである。即ち自己の喪失である。即ち「無我」の転換である。そこに生まれ出る新たな世界としての「浄土」とは、無の世界である。絶対自由の世界である。死を象徴とみることによって、ここにも亦、往生は現在の瞬間に於ける生の「転換」である。
 生の「転換」とは、我から無我への転換である。これは死して生まれるといふ、絶対否定を媒介とする転換であるがゆえに、往生といふ。そこに無我の世界が展開し来ることである。そこに私たちは喪身失命せしめられる。いはゆる「南無」である。これが光限りなく命限りなき、「阿弥陀仏」の世界が展開し来ることである。―――かくて往生は念仏である。
 つまり念仏のうちに往生といふことも、こもっているのである。それは分段の生死になぞらへて、刹那生死を明かしている。現在の刹那に「無」の超証を味わふことなくして、往生といっても無意味であらう。それはいまに死んでからといふやうな間のびしたことではないのである。
毎田周一「死の象徴するもの」『全集』第七巻、五三六頁(昭和三一年、五月二九日)

毎田周一「死の象徴するもの」『全集』第七巻、五三六頁(昭和三一年、五月二九日)

毎田は往生を三つの意味でとらえているようである。

まず、①この世では悟りを絶対に開けないという「懺悔」が往生

遂に愛欲・名利を脱却し得ないといふ、痛烈な「懺悔」である。この懺悔のある限り、遠く寿命の終わるを待つまでもなく、即今唯今の「死」である。そこに現在に於ける私達の生の「転換」がある。これ往生である。

『全集』第七巻、五三六頁

死なないと仏になれない自分であると教えられるのが往生だというのである。これは何となく、理解できる。しかし、どうしてそれによって生が転換するのかが、よくわからない。非常に直観的な文章だと思う。

②に、「死ぬまでは如何ともする能はざる煩悩具足の凡夫であるといふ認識」

これも、①とよく似ていると思うさらに、毎田は、

この絶対的事実の前に、自力(倫理的努力とその可能性の前提)を抛棄せしめられること、自力の喪失である。ここにこの煩悩具足の凡夫を、かくあらしめる絶対の生命が承認される。―――自力の完全喪失による絶対的生命の事実の承認といふことは、喪身失命のものの、絶対生命の中での蘇生である。死して生きること、これまた生の「転換」であり、往生である。そして現在の瞬間のことである。

『全集』第七巻、五三六頁

と、述べる。煩悩具足の凡夫と認識させられると、そのようにあらしめる絶対の生命が承認されるというが、これもなぜそういうことがおこるのか、また一体どのような事態なのかが、よくわからない。生が転換するというのだが。どのようなことなのか?

第③に、「死」は象徴であり、譬喩であるという。

「死」とは、寿命尽きて死ぬるといふその死とは、一種の譬喩なのである。何ものかの象徴である。それは死に切ることである。自らのうちに何等の価値あるもの、存在意義あるものもなくなることである。

『全集』第七巻、五三六頁

やはりこれも理解しにくい。しかし、毎田は明らかに「往生」を現在のこととして語っている。しかしそれを同時に「死」と呼ぶのである。

毎田の往生理解はやや混線しているように思うのだが、どうだろうか。今日土井先生の本を読んでいたら、次のような文章があった。

この「往生を得る」をこの世で「往生するのだ」といわれる場合がありますが、この場合は「往生とは何か」を正確に概念規定しないと誤解されます。まずは往生とは臨終の一念に大涅槃の「浄土に生まれる」ことというのが、この場合の宗祖のお心と見るのが穏当だと思います。
「往生」を精神的な回心、いわばよく言われる「自我に死んでまことのいのちによみがえる」というような宗教的経験を往生と受け取る場合があります。これでもって第十八願成就文を読むことも可能でしょうが、これが本願成就文の基本の意味だとすると教義が二義になり、混乱することになりかねません。

土井紀明『第十八願を読む』八十四頁

土井先生の意見に首肯するところである。やはり、親鸞の上では往生はこの世の命を終えるという意義を外してはならないと思う。しかし、往生は点でとらえるべきではなく、線的にとらえるべきだと思う。往生が始まるのはこの世であるが、往生を「とげる」のが命終のときと考えるのが穏当ではないだろうか。とはいえ、この辺りすら自分はよく分かっていないので、確証がない。せめて親鸞の文章の上で本当にどうなっているのか。もう少し勉強したい。その上でもう一度考えたい。

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