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日記 202310.15

最近のノートはもう、体裁とかどう読まれるかとか気にせず、書きたいことを書いているので、読まれる方も決して楽しくはないと感じています。それにもかかわらず、何人か読んで下さっている方がいるので、非常に恐縮しています。

最近あったこと。
自分は友人が少なく、人とご飯に行くこともないのだが、昨日久しぶりに知人とご飯に行った。そのとき、「近藤さんはどういう人が嫌いなんですか?嫌いな人とかいないんですか?」と聞かれて、そういえば、こういう話題に自分は上手く入れないというか、普段からこういうことをあまり考えていないんだよなと振り返る。だから話が面白くないと思ってしまう。普段から考えている人の話は面白いよなと、自分に引き比べて思ってしまうのだ。結局昨日は上手く何も言えずごにょごにょ言って終わってしまった。
しかし、あらためて考えると、自分が嫌いな人はここ最近は「属性で相手を見る人、属性で相手を見て態度を変える人」と言えるかもしれない。とはいえ、これは自分自身がそうだったということである。そういうことばかりの世界だからこそ、そうしない人でありたいという願いが込められている。
最近、講義や講演会を聞いていて、本当に立派な人はどんな質問にも、その質問者の属性などを見ずに、誠実に全力で答えるシーンを見た。そのとき、「あ、こういう人になりたい」と思った。多分その時自分は希有な場面を見たように思った。やっぱり何だかんだ私たちは人を属性で判断してしまうように思う。しかし、そういうことをしない人、意識的にそこから離れようとしている人がいるのだ。それは意識的に、そういうあり方から離れようとしなければでき難いことだと思う。これは修練である。


今日は東本願寺のしんらん交流館に「日曜講演」を聞きに行った。

東本願寺日曜講演

本日は松下先生のお話で「諸行無常の中に」という話であった。覚えている所のみメモしておきたい。
四法印というのは
・諸行無常…形あるものはみな無常である。
・一切行苦…形あるものはみな苦である(一切皆苦)。
・諸法無我…すべての法は自己ではない
・涅槃寂静…涅槃は寂静である

松下先生の言葉で心に残ったのは、諸行無常と知ったところで、私達は諸行無常であるならば今を楽しもうという風になる。私はそういう風にしか思えなかったということである。そして諸行無常ということは死んでもどうなるか分からないという不安を抱えているのだということだった。
諸行無常と知るということは、本当に信頼がおけるものが何もないということだ。

しかし、本当に信頼できるものがないということによって不安を感じるということは、私達は本当に信頼できるものが欲しいということなのだ。それがつまり真実を求めることなのだというお話であった。

諸行無常であるので、本当に信頼を置けるものがない。そこに人間の苦悩がある。ブッダは人の苦悩の姿を見たという話であった。
この世で安んじていけない、本当に安心できないということが苦悩なのである(もちろんこれは宗教的な文脈である)。
その問いの中から真実を求めるということこそが大事なのだ。そして真実をブッダが説いているということこそ大事なのだ。
こう言われると当たり前の話なのだが、とても大切なことを教えてもらった。私は今高校生たちに仏教の授業をしているのだが、どうも「諸行無常」ということを言って満足していなかっただろうかと思う。そのレベルに止まってしまってその後の救いの話を全くできていなかったのではないか。「あらゆるものが無常である」なんていうことなら今の中学生・高校生はみんな知っている。「諸行無常」という言葉を何度繰り返したところで、それは仏教の入門でしかなく、また逆に「諸行無常だから毎日を大切に生きないとダメですねみ」たいな浅い人生訓みたいな話で終わってしまう(実際高校生に作文を書かせると、毎日が一回きりだから全力で楽しみたいというものが多い。それはそうなんだけど、それだと、他の処世術や人生訓と同じである)。しかしブッダが言っているのはその人間の苦悩からの解放である。そこのところをもっと明確にしないといけないし、勉強しないといけないし、語って行かなければならない。
浄土真宗ではその救いが「聞」に集約されている。聞くこと自体が、救済に重なるのだ。今日の講演で紹介された安田理深先生の言葉を引用したい。

「聞其名号信心歓喜」、これを聞即信というが、聞は、信を呼び起こし、与える方法である。聞が、信を開く方法である。また目的である。聞は、善知識によって、自分に関係して聞くのである。自己の宿業に響かして聞く。自己を機として聞くのである。ただ耳に聞くということではない。(中略)迷ったものが、真理にふれるのである。聞くのは怖れである。自分を否定するのであるから、怖いのは当然である。けれども聞けば聞くほど、自我が否定されていくのである。実際、聞法は格闘である。本願が自分の上に上陸して来たところが、聞である。名号をもって呼びかけ、本願が上陸したのである。そして抵抗する限りの我を、征服するのである。こうして遂に綺麗に負けて満足するところが、信である。

『安田理深選集』第9巻,pp.113-114

真宗においては、念仏を媒介に真理にふれるという所に救済があるのであろう。

もう一つ、仏教の言葉が紹介されていたので、引用したい。


世尊は、仏の眼をもって世界を見たとき、汚れ少なき衆生や汚れの多い衆生、機敏なものや鈍感なもの、形のいいものや悪いもの、教えやすいものや教えにくいものが、またある者たちはあの世での罪の恐れを知って、生活しているのを見た。

パーリ律「大本」、趣意

ブッダは人の苦悩の姿を見たと説かれている。これは、法蔵菩薩の誓願にも通じるものである。

とても大切なお話だったが、理解できたわけではないので、もう一度聞き直したいと思う。


尹さんのワークショップに参加したが、すごい内容だった。とても大切なことを聞いたのだが、纏めきれない。

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