「宗教」とは何か、また「宗教とどのように向き合うか」ということについて、思想家の三木清が(1897-1945)が親鸞に関する論考の中でかなり述べていることを知る。三木の宗教論を再検討することは、今日重要なことだと気づかされる。そこで子安宣邦『三木清遺稿「親鸞」死と伝統について』を呼んだ中から、気になった言葉をここにメモしておきたい。
三木の問題意識は非常に興味深い。三木は親鸞の仏教が人間味があると言われることについて、留保が必要だという。確かに彼の文章は人間味があると三木も認める。それは、親鸞の体験に基づいているからだという。しかし宗教は単なる体験ではないという。単なる体験に終われば、感動に終わってしまうと。体験に終わるということは、宗教を主観化してしまうことだという。
ここで最も大切な所は、宗教は「真理」の問題だということであろう。「真理は単に人間的なもの、主観的なもの、心理的なものでなく、飽くまでも客観的なもの、超越的なもの、論理的なものでなければならぬ。もし宗教が単に体験に属するならば、それは単なる感情、いな単なる感傷に属することになるであろう。かくして宗教は真に宗教的なものを失って、単に美的なもの、文芸的なものと同じになる。」
真理は、客観的で超越的、また論理的なものだという。単なる体験に終るとそれは、単なる感傷に属するという。
しかし、真理が超越的、論理的とはどういうことだろうか?この辺りが難しくてまだわからない。超越的なものは内在的なものだともいっているが、この辺りも分からない。
三木は超越的なものが内在的であるということの証明として、親鸞の中には懺悔と讃嘆が相応してあることを述べる。懺悔は無我の立場でなされるものであり、そうでなければ単なる後悔になるという。では無我の立場でなされる懺悔とはどのようなことなのか?この辺りも、分かりそうで分からない。この論理展開をさらに突っ込んで考えていく必要がある。これから三木を呼んでいきたい。またこの懺悔の構造は、親鸞と同じなのであろうか?
また、同時代に懺悔を検討した人物たちとの比較も必要であろう。
終