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日記 2023.11.5 読書会メモ

これからしばらくnoteを法話の原稿案を練るためのノートに使おうと思うので、わけのわからない情報の切れ端のような投稿が続くと思います。またほとんどが信仰の話になると思いますので、嫌だなと思ったらミュート等して頂けたらと思います。

今日の読書会のメモ
(ここに書かれているのは全て他の参加者に教えてもらった言葉である)
不可思議というのは思議が止むということではないかという話があった。
自分の意識には思議しかない。念仏に触れたときだけ思議が止むのだと思うという話をしてもらった。摂取不捨ということは自分の中からは決して出てこない。以下の文章に思議という言葉が出ていると、参加者の先生に教えてもらった。

また云わく、一切諸仏、微塵劫を暦て実相を了悟して、一切を得ざるがゆえに、無相の大願を発して、修するに妙行に住することなし。証するに菩提を得ることなし。住するに国土を荘厳するにあらず。現ずるに神通の神通なきがゆえに、舌相を大千に遍くして、無説の説を示す。かるがゆえにこの経を勧進せしむ。あに心に思い、口に議るべけんや。私に謂わく、諸仏の不可思議の功徳、須臾に弥陀の二報荘厳に収む。持名の行法は、かの諸仏の中に、また須らく弥陀を収むべきなり、と。已上

親鸞『教行信証』「行巻」『聖典』p.187

「帰命無量寿如来」というは、寿命の無量なる体なり、また唐土のことばなり。阿弥陀如来に南無したてまつれというこころなり。「南無不可思議光」というは、智慧の光明のその徳すぐれたまえるすがたなり。「帰命無量寿如来」というは、すなわち南無阿弥陀仏の体なりとしらせ、南無阿弥陀仏と申すは、こころをもってもはかるべからず、ことばをもってもときのぶべからず、この二つの通りきわまりたるところを、「南無不可思議光」とはもうしたてまつるなり。これを報身如来ともうすなり、これを尽十方無碍光如来となづけたてまつるなり。

蓮如『正信偈大意』『聖典』p.747

読書会の参加者から、心理学などで言う自己受容と仏教でいう自己を受け入れるというのは何が違うのか?という質問があった。参加者の先生の解答を中心にメモしておきたい。とても大事な内容だった。
自己が否定される世界が仏教なのだと。自己自身をマーラー(Māra)として発見したのが釈尊の悟りだったというお話があった。仏教が他の教えや世間の自己受容などとまるっきり違うのは、その自己を否定していく根源にある自己の無明を問題とする事なのだという話があった。これは言われたら、そうかと思うものだが、先生の口から聞いて驚いた。そうか…そういうことだよなと。
仏教が違うのは自己を問題とする所。自他を受け入れられない、受け入れない根本、根っこを無明とする。その自己を見つめるのが仏教。自己を教えられるのが仏教なのだと。自己否定の根っこを見ていかないといけない。だから仏教を聞くのはつらいのだという話も心に残った。とても自我の欲求からは仏教を聞こうなどという心は起こらないと。

全否定のところにあるのが丸ごとの肯定であると教えてもらった。丸ごとの否定を受け入れるのが念仏の摂取不捨だと。
無明煩悩でこの世界が満ち満ちている。それが無碍光、如来の光が満ち満ちているということと同義なのだと。法然においては、浄土と穢土は重なりよりも、まったく別の場所にあるという点が強調された。しかし親鸞においては、浄土と穢土が重なっているところがある。
この場で浄土に出会うことで、自己が転じられていく。だから浄土はどこにでもあるし、この世界に来ているのだと。自分が転じられる場所が浄土であり、自分の闇が課題になり、そこが照らされるということ自体が浄土の働きそのものである。以下のような文を参照するように先生から教えてもらった。

円融至徳の嘉号は、悪を転じて徳を成す正智、難信金剛の信楽は、疑いを除き証を獲しむる真理なりと。

親鸞『教行信証』「総序」『聖典』p.149

しかれば、大悲の願船に乗じて光明の広海に浮かびぬれば、至徳の風静かに衆禍の波転ず。すなわち無明の闇を破し、速やかに無量光明土に到りて大般涅槃を証す、普賢の徳に遵うなり。

親鸞『教行信証』「行巻」『聖典』p.192

ここをもって、愚禿釈の鸞、論主の解義を仰ぎ、宗師の勧化に依って、久しく万行・諸善の仮門を出でて、永く双樹林下の往生を離る、善本・徳本の真門に回入して、ひとえに難思往生の心を発しき。しかるにいま特に方便の真門を出でて、選択の願海に転入せり、速やかに難思往生の心を離れて、難思議往生を遂げんと欲う。果遂の誓い、良に由あるかな。ここに久しく願海に入りて、深く仏恩を知れり。至徳を報謝せんがために、真宗の簡要を摭うて、恒常に不可思議の徳海を称念す。いよいよこれを喜愛し、特にこれを頂戴するなり。

親鸞『教行信証』「化身土巻」『聖典』pp.356-357

私は、being である存在を価値で見てしまう所に問題があるのかなと思った。しかし、そもそも、どうして価値で見るのかと言ったら、自己自身が問題なんだと言われてびっくりした。自分の考えよりはるかに深いことを仏教が言っていた。
根っこにある根本問題を考えないといけないというのが仏教なんだ。根っこに魔がある。魔は自分だ。自分の無明である。
そこを離れなさい。というのが仏教の教えであるそうだ。
しかし、現実は私達はそこを一歩も動けない。
仏教の基本は私は妄念であるということである。だから、我を離れよというのが仏の教えである。我を離れさせよう。
しかし、私達は自分が虚妄分別でしかないと思っても、実際はその虚妄分別を一歩も離れられないのである。そのことを問題にしたのが親鸞である。

聖道門…虚妄分別と分かったから虚妄分別を離れる。
浄土門(浄土真宗)…虚妄分別と分かっても離れられない自己である。

聖道門→ 一歩一歩虚妄分別から離れる。立派な自己になる。
浄土門→あなたは「虚妄分別」ですよと教えられ続ける。

名号に教えられる。教えられると言っても、名号(南無阿弥陀仏)を通して教えられる。
私が受け止められるのではない。十方衆生として受け止められる。
一切衆生と共に私がある。

これは驚くべきことだ。最後にある参加者が言ってくれたのだけど。私達は受け止められるとおもうとき、「私が受け止められる」と思っている。私が…なのである。どこまでも、「この私」が受け止められる。それだけが受け止められることだと思っている。

しかし、親鸞は「十方衆生」という形で受け止められるというのだ。これは思っても観ないことである。十方衆生よと呼びかけられる。そういう受け止め方だ。普通の世間の感覚で言えば、これはつまらんということになる。私だけが特別ではないのかと。しかし、すべての衆生、一切衆生と共に自分が受け止められると言うところに大事なものがある。それは装丁もしていなかった救済だが、そういうところにしか、本当の満足はないのではないか?本当の本当に深い所においては、私達は、自分一人が受け止められるという子を求めているのではない。すべての衆生が受け止められなければ自分の救済はないと思っているのである。
十方衆生が救われなければ、十方衆生が救われる場においてはじめて自己の救済が成り立つのである。
これは驚くべきことだ…。そんな発想は全く自分から生まれてきようがない。しかし、如来の呼びかけを通して、如来に十方衆生よと呼びかけられて、初めて自分の深い深い願い、それは何万光年も自分の奥底を掘っていったところにあるような深い願であろう。静かなる願であろう。

しかし、十方の衆生よ救われてくれ…という呼びかけ、その呼びかけこそが自分が出会いたかった言葉であったものだという気がする。貴方だけを助けますとか、あなたが大事。それは世間の価値観では嬉しいものだし、自分も求めている。しかし本当に出会いたかったのはそういう個人的な呼びかけではない。十方衆生である。

ところが、この話は感動するのであるが、しかし十方衆生と呼びかけられた自分はどうするのか…。そういう問題が非常にある気がする。十方衆生と呼びかけられた私が、全く十方衆生を無視するような生活になれば、それははっきり言って言葉の響きに感動しているだけである。そういう危うさがある。その次の所が大事なのだろう。


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