信巻と化身土巻の関係 親鸞を学ぶ メモ
真宗における教育ということについて、本多弘之先生が大切なことを言っていたのでメモしておきたい。
noteは、今や忘備録のために使っていて、自分以外の方に読まれることをほとんど意識していないので、非常に読みにくいと思います。
第5回「現代と親鸞」公開シンポジウム メモ
宗教と言っても家族と言っても非常に広い
世界にある思想のほんの一部でしかない
親鸞を学ぶんではない
親鸞を通して人間としてどうしても学ばなければならないことを学ぶんだ
親鸞を学ぶんではない
親鸞を通して本当に求めなければならないものを学ぶんだ、求めるんだ
親鸞という人の中にそういうものがあるのか?
人間の苦悩とは何か?
様々な他者と共に生きているこの自分をきちんとうけとめられない
これが様々な苦悩の根源ではないか?
様々な縁によってさまざまなことがおこってくる
自分に起こってくることを受けとめることが出来ない
正しく受け止めることが出来ない
会社関係職場関係、色々な関係がある
その作ったものと自分の事実が合わない
自分が苦しんでいる
家族ということの持っている苦しみ
家族とは何か?
明治の法律には家族のきていがある。 現代の法律家族の規定がない
家族というものがどうして私たちに、影響力を持つのか?
法律的に規定しているものが私たちに関わっている
もう一つは通念、様々な常識とか、思い込みとか、そういう所に悩みがある
家族というものをどういう風に規定していいんだろうか?
菊池さんにとって、家族というものをどう受け止めるのか?
家族というものの他と関係性を持つときに、家族がどういう意味を持つのか?
宗教の教え、平等性を言っている。しかし、その平等性が差別的な働きをしてきたのも事実である。
キリスト教であれば、家族に嫌悪をもってきた
宗教というものは、そもそも家族というものをどういう風に考えていったらいいのか?
黄門…
親鸞も、涅槃経要門で、この黄門を引用している
菩薩、が様々な差別されるものとなってそれをになうんだとなっている
大乗仏教の願い、差別される者にどこまでも立っていこう。
子どもは家族の宝物ではなくて、社会の宝物ではないのか?
今まで家族におしつけられてきたものを、もっと社会のみんなでとらえていくようなことにしなければならない
家族を開かなければならない
その一方で、社会でつらいことがあった時に、支えてくれる場所であったらいいなと思う。理想論かもしれないが。
家族というものが、家族というものを否定するのではなくて
もう少し別の形で家族を支えるような共同体を作っていく
享受していく
そのことによって、
家族が支えられないような状況になっている中で、
どのように共同体を作っていくのかが大事だなと思った。
同質性の中にいるのが、お坊さんの問題。ここの差異が生活環境においてもない。そこのところが問題。中年男性が中心の社会になっている。そういう方のお話ばかり聞く若いお坊さんという構図が抜けない。
極端にふれることになりがち、色々なチャンネルを自分たちがちゃんと確保しておく。ステレオタイプにならない方法ではないか?
家族に関しても、できるだけ仲良くやって行く事が大事なんだけど、
どうしてもうまくいかないこともある。お寺がその受け皿とか、居場所になるということも大事なのではないか?家族でない場所、サードプレイス的なお寺って大事なのではないか?
伝統的な仏教
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