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信巻と化身土巻の関係 親鸞を学ぶ メモ

真宗における教育ということについて、本多弘之先生が大切なことを言っていたのでメモしておきたい。
noteは、今や忘備録のために使っていて、自分以外の方に読まれることをほとんど意識していないので、非常に読みにくいと思います。


「信巻」と「化身土巻」の対応
私は三宝を見聞するということが、いったい浄土真宗の教えでは、どこでおさえられるのかということを日頃考えておりまして、それで実は特に人間教育といいますが、人間が教育されて一歩一歩を歩むという意味でいいますと、真宗における教育ということは、特に『教行信証』におきましては、「信巻」と「化身土巻」の対応である。『教行信証』は六巻ありまして、その第三巻が「信巻」、一番最後の第六巻が「化身土巻」なのです。これが真宗における求道の道筋といいますか、人間が人間になっていく道筋を特に注目して教えて下さってある巻であるというふうに私は考えております。
この「信巻」というところには問答が展開されておりまして、親鸞の仏教に対する問いかけ、親鸞自身はそれを疑問と言っていますが、疑いを通して真実を明らかにするということが、「信巻」でなされているわけです。「しばらく疑問を至して遂に明証を出す」(別序)と。
また「化身土巻」
という所では、求道の道筋、むしろ迷いが明らかにされてある。人間は道を求めていると思いながら迷っている。実は、道を求める所にすでに迷いがある。迷いというものは、苦悩を持つ者が必ず感ずるところですけれども、そういうことが「化身土巻」で読み取れるわけです。
そういう人間の迷いというもおんが個人に先立って、個人親鸞とか、個人釈迦に先立って、実は誰でもが同じ迷いを、あるいは誰でもが同じような苦悩を繰り返すのだということを、経典は教えてくれているのだろうと思うのです。単に個人の悩み、あるいは個人の苦しみだけではない。人間が苦しむというときには、同じような苦しみ方をし、同じような迷い方をしていく。そういう意味で、親鸞は経典の語る言葉を自分の悩みの原理にする。
悩みの原理にするというのはおかしいかもしれませんが、自分はなぜそういう悩みを持つのかということを、経典のことばで教えられる。これが、自分が、自分が今悩んでいることの原理であるという形で、自分の悩みの深さを教えらえれる。救いを見いだすということも経典かもしれないけれどむしろ悩みを経典によって教えられる。それで「化身土巻」では、一般に信仰批判がなされているといわれますが、私は単に信仰批判ではなく、生活批判というところまで入るだろうと思います。仏教者としての生活態度が厳しく批判されてある。ですからなんといいますか、人間として楽になりたいとか、あるいは救われたいとか、そういう要求というものが、ある意味では「化身土巻」というところで、厳しく批判される。
ことばはそういう形ではないですけれども、諸天とか鬼神とかに帰依してはならない。三宝、つまり仏に帰依するという基本的態度を見いだすならば、その他のものには帰依してはならない。その他のものに帰依するというのは、つまり人間をつかさどる、あるいは人間を動かしてくるような能力とか、誘惑とか、あるいは苦悩とか、そういうものにそれぞれ神とか天とか、いろんなそういうことが当てられてくるかと思いますが、そういうものを敬ったり、礼拝したりしてはならない。これは、われわれの生活を厳しく批判している言葉だろうと思うのです。
われわれは常に本来のものを忘れて、自分を誘惑するものを尊敬し、あるいは自分をちやほやするものをかわいがる。そういう態度のなかに、実は迷いがひそんでいる。ですから「化身土巻」というのは、信仰批判は実は生活批判である、生活自身を批判する原理を教えてあるものだというふうに思われるわけです。

本多弘之『微笑の素懐』pp.140-143

第5回「現代と親鸞」公開シンポジウム メモ


宗教と言っても家族と言っても非常に広い
世界にある思想のほんの一部でしかない
親鸞を学ぶんではない
親鸞を通して人間としてどうしても学ばなければならないことを学ぶんだ
親鸞を学ぶんではない
親鸞を通して本当に求めなければならないものを学ぶんだ、求めるんだ
親鸞という人の中にそういうものがあるのか?
人間の苦悩とは何か?
様々な他者と共に生きているこの自分をきちんとうけとめられない
これが様々な苦悩の根源ではないか?
様々な縁によってさまざまなことがおこってくる
自分に起こってくることを受けとめることが出来ない
正しく受け止めることが出来ない

会社関係職場関係、色々な関係がある
その作ったものと自分の事実が合わない
自分が苦しんでいる

家族ということの持っている苦しみ
家族とは何か?
明治の法律には家族のきていがある。 現代の法律家族の規定がない
家族というものがどうして私たちに、影響力を持つのか?

法律的に規定しているものが私たちに関わっている
もう一つは通念、様々な常識とか、思い込みとか、そういう所に悩みがある
家族というものをどういう風に規定していいんだろうか?
菊池さんにとって、家族というものをどう受け止めるのか?
家族というものの他と関係性を持つときに、家族がどういう意味を持つのか?
宗教の教え、平等性を言っている。しかし、その平等性が差別的な働きをしてきたのも事実である。
キリスト教であれば、家族に嫌悪をもってきた
宗教というものは、そもそも家族というものをどういう風に考えていったらいいのか?
黄門…
親鸞も、涅槃経要門で、この黄門を引用している
菩薩、が様々な差別されるものとなってそれをになうんだとなっている
大乗仏教の願い、差別される者にどこまでも立っていこう。

子どもは家族の宝物ではなくて、社会の宝物ではないのか?
今まで家族におしつけられてきたものを、もっと社会のみんなでとらえていくようなことにしなければならない
家族を開かなければならない
その一方で、社会でつらいことがあった時に、支えてくれる場所であったらいいなと思う。理想論かもしれないが。
家族というものが、家族というものを否定するのではなくて
もう少し別の形で家族を支えるような共同体を作っていく
享受していく
そのことによって、
家族が支えられないような状況になっている中で、
どのように共同体を作っていくのかが大事だなと思った。

同質性の中にいるのが、お坊さんの問題。ここの差異が生活環境においてもない。そこのところが問題。中年男性が中心の社会になっている。そういう方のお話ばかり聞く若いお坊さんという構図が抜けない。
極端にふれることになりがち、色々なチャンネルを自分たちがちゃんと確保しておく。ステレオタイプにならない方法ではないか?
家族に関しても、できるだけ仲良くやって行く事が大事なんだけど、
どうしてもうまくいかないこともある。お寺がその受け皿とか、居場所になるということも大事なのではないか?家族でない場所、サードプレイス的なお寺って大事なのではないか?
伝統的な仏教

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