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若い人と共に仏教を聞くことの意味①

藤井慈等氏の著書『聞法の生活』を読んだ。

印象に残った文章をいくつか抜粋して感想などを書いてみたい。

2008(平成20)年11月、長い療養生活を過ごされていた宮城顗先生が亡くなられました。およそ40年おつきあいくださった先生には、いくつかの忘れられない言葉があります。その中の一つ、
私自身が自分の生活の中で、人間として生きていくということが本質的に抱え持っている悲しみ、一言で言ってしまいますと、人間であることの悲しみにふれるたびに、親鸞の言葉に帰り、聞き直すということをしてまいりました。そして、そのたびに、私はいつもその親鸞の中に、もっと深く悲しみを受けとめて歩み続けておられる姿を見出してきました。考えてみますと、人間であることの悲しみを深く知る心だけが、周りの人に対して、心やさしく、人の悲しみに寄り添っていける心ではないかと思います。(『自分を愛するということ』九州大谷文化センター)
というものであります。宮城先生は、どちらかといえば晩年、親鸞聖人のお手紙の中の「ともの同朋にもねんごろのおわしましあわばこそ」(真宗聖典 563頁)という言葉を、よく取り上げてお話くださいましたが、ここに念仏者として生きられた先生の面目、生活の姿そのものがあらわされているように思います。
 亡くなられてしまいますと、もはや先生にはお会いできませんが、そのように指摘される先生の「人間であることの悲しみ」ということを思い起こします時、いかにそのことを忘れ、鈍感になっているかが改めて思い知らされ、出遇い直しをさせられるのです。
『歎異抄』第九章に、「念仏もうしそうらえども、踊躍歓喜のこころおろそかにそうろうこと、またいそぎ浄土へまいりたきこころのそうらわぬは、いかにとそうろうべきことにてそうろうやらん」と、もうしいれてそうらいしかば、「親鸞もこの不審ありつるに、唯円房おなじおころにてありけり。(真宗聖典 629頁)
という、親鸞聖人と唯円の対話がよく知られています。親鸞聖人は唯円の問いに対して、「その不審とおなじ」ではなく、「この不審」というように、唯円の問いによって、自らの不審に驚き立って「おなじこころにてありけり」とおっしゃっておられるように思います。その意味で、唯円の問いに深く頭を下げておいでになる親鸞聖人の姿勢が思われるのであります。
『歎異抄』では、その後に、
「仏かねてしろしめして、煩悩具足の凡夫とおおせられたることなれば、他力の悲願は、かくのごときのわれらがためなりけり」
と、「われら」の世界を見いだしておいでになります。
 先にご紹介しました、親鸞聖人のお手紙の「ねんごろのこころ」の「ねんごろ」ということを、宮城先生は「根が絡む様な状態である」と指摘くださったことがあります。そのことを念頭に考えますと、「ねんごろのこころ」とは、答えではなく、人間の底深くに流れている問いが絡みあう時、呼応する時に、図らずも彼岸から開かれる「われら」の世界であるように私は思われます。
 翻って、人生を答えとして座り込みますと、そこでは人を評価し、差別し、結局、人と人の間柄を切り刻んでしまう、貧しい世界をうみ出すことになるのではないでしょうか。(11-16頁)

藤井慈等『聞法の生活』

こころに残ったのは、宮城先生の言葉である。

私自身が自分の生活の中で、人間として生きていくということが本質的に抱え持っている悲しみ、一言で言ってしまいますと、人間であることの悲しみにふれるたびに、親鸞の言葉に帰り、聞き直すということをしてまいりました。そして、そのたびに、私はいつもその親鸞の中に、もっと深く悲しみを受けとめて歩み続けておられる姿を見出してきました。

宮城顗

最近、若い生徒たちと共に仏教を学ぶことの意味を考える。なぜ高校生に仏教を伝える必要があるのか。何を伝えようとしているのか。そのことが明確でないままに教員をやっていることに罪悪感もある。しかし、日々その事おを考え直していかなければならないのだと思う。
おそらく、一つはこの宮城先生が言うような人間に生きることの悲しみを伝える領域というのは、仏教とか宗教というものの持つ大切な意味なのではないだろうか?
まず日常においては、人間にいきることは「良い」ことだとされる。しかし、仏教はそのようには人間を観ない。人間を生きることは悲しいことなのだという。こういうことを話すことと言うのは、仏教や宗教という舞台でなければ無理である。しかしこうして人間の悲しみを見てきた教えが人間を支えることがあるのだと思う。人間をポジティブにしようという教えではないのである。人間の悲しみをみつめ、悲しみをそのまま受け止める教えが仏教であろう。そしてそういう領域があると若い人が知ることが必ずいつか力になると私は思う。その人間の悲しみを受けとめているのは人間ではない。人間を超えたような働き、仏教でいえば如来が人間を悲しむのである。そこにおいて私たちの悲しみの存在が受け止められる。私達は普段日常では、何事かが成就したり成長したりする事のみを意味だと思って生きてしまう。しかし、仏教の世界とは、何か私たちが思い通りになることを成就と観るのではない。成就しないままに生きる人間を受けとめる世界である。
そういう世界への開けがあると知ることが何か人間にとって、大切なことなのであろう。

追記:BBCやアルジャディーラではガザの戦争の映像がさかんに流れている。その一方で日本の放送局からはお笑いやスポーツの映像が流されている。そのことに何か恐ろしい気持ちになる。世界の一方で起きている戦争を全く意を介さない社会、そして自分。私達には悲しむということがもうないように思う。いや個人的なことでは悲しめるのだが、戦争が起こっているのに、そのことにすら驚けなくなっているように思う。自分も、社会も、ちゃんと喪に服すという感覚が分からなくなっているように思う。


(終)



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