藤井慈等氏の著書『聞法の生活』を読んだ。
印象に残った文章をいくつか抜粋して感想などを書いてみたい。
こころに残ったのは、宮城先生の言葉である。
最近、若い生徒たちと共に仏教を学ぶことの意味を考える。なぜ高校生に仏教を伝える必要があるのか。何を伝えようとしているのか。そのことが明確でないままに教員をやっていることに罪悪感もある。しかし、日々その事おを考え直していかなければならないのだと思う。
おそらく、一つはこの宮城先生が言うような人間に生きることの悲しみを伝える領域というのは、仏教とか宗教というものの持つ大切な意味なのではないだろうか?
まず日常においては、人間にいきることは「良い」ことだとされる。しかし、仏教はそのようには人間を観ない。人間を生きることは悲しいことなのだという。こういうことを話すことと言うのは、仏教や宗教という舞台でなければ無理である。しかしこうして人間の悲しみを見てきた教えが人間を支えることがあるのだと思う。人間をポジティブにしようという教えではないのである。人間の悲しみをみつめ、悲しみをそのまま受け止める教えが仏教であろう。そしてそういう領域があると若い人が知ることが必ずいつか力になると私は思う。その人間の悲しみを受けとめているのは人間ではない。人間を超えたような働き、仏教でいえば如来が人間を悲しむのである。そこにおいて私たちの悲しみの存在が受け止められる。私達は普段日常では、何事かが成就したり成長したりする事のみを意味だと思って生きてしまう。しかし、仏教の世界とは、何か私たちが思い通りになることを成就と観るのではない。成就しないままに生きる人間を受けとめる世界である。
そういう世界への開けがあると知ることが何か人間にとって、大切なことなのであろう。
追記:BBCやアルジャディーラではガザの戦争の映像がさかんに流れている。その一方で日本の放送局からはお笑いやスポーツの映像が流されている。そのことに何か恐ろしい気持ちになる。世界の一方で起きている戦争を全く意を介さない社会、そして自分。私達には悲しむということがもうないように思う。いや個人的なことでは悲しめるのだが、戦争が起こっているのに、そのことにすら驚けなくなっているように思う。自分も、社会も、ちゃんと喪に服すという感覚が分からなくなっているように思う。
(終)