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20240325 今日読んだ文章

大谷大学名誉教授の加来先生の文章に出会ったが、あまりにも大切な内容である。忘れないようにメモしておきたい。

安田理深(1900〜1982)師は、還暦の年、洛南の東寺において、20世紀を代表する神学者P・ティリッヒ博士と対話した。博士が「人間にとって宗教はどのような意味をもつと思いますか」と尋ねたとき、師は間髪を入れず「宗教がなくて人間といえますか」と応えたという。
 先日、中国出身の親鸞研究者が、仏教伝道協会の受賞スピーチにおいて「私は、親鸞を通して出遇った真実を、中国の若者たちに伝えていきたい」と陳べていた。
 思えば、親鸞は、人の世における完全な依り処、つまり真宗を求めた人であり、そして、その真宗を本願他力の教えに見いだした人であった。
 親鸞は、真宗を教義として語ったのではない、みずからが法然上人を通して出遇った真実を、人間であることの深い悲しみを、如来の弘い願いを、過去・現在・未来の無数の人びとの声なき声を、伝承のなかに証しされてきたことばのなかに聞きとり、どこまでもどこまでも厳密に語ろうとつとめたのである
 私たちは、資本主義という過酷な社会体制のなかを生きているのだが、この原稿を書いているとき、新型コロナウィルスによる感染症拡大が、その社会の隠されていたひずみを、これでもかというほど露見させつつある。この現実を問い返す視座が実現できないならば、私の学びはなにであったのか。もし教義によって、この現実を解釈したり、現実から逃避したり、現実を非難することに終わるならば、私にとっての真宗とはなにであったのか。
 人間のあらゆる営みを生きることの根底から問い直し、受けとめなおし、歩みなおすための眼差しが真宗であるならば、それはすべての人間の究極的課題ということになる。わたしがこの大谷大学で学生たちとともに学ぼうとしてきたことは、仏教の概念でもなく、親鸞の教義でもなく、この深く広い眼差しを学ぶためだったのだということを、このごろ強く思う。

無盡燈 読むページ  現役教員からのお便り No.145(2020年)http://www.mujinto-otani.org/publication/No145/04.html

加来先生の言葉を聞いて思うこと。私たちは、生きるということを受け止めなおす必要があるのではないだろうか?近年、優生思想ということがあらためて問題になってきている。しかし、それは、他人事として存在しているのではなくて、私たちが実は優生思想そのものを内面化し、むしろ優生思想を肯定しているのではないかということが明らかになってきているように思う。例えば、成田悠輔氏が過去に「高齢者は集団自決、集団切腹みたいなことをすればいい」と発言したことに関して、そのことへの批難よりも、むしろネットではそれが肯定的に受け止められるような言説も多い。このことの危険性をどれだけ私たちは自覚しているだろうか。しかし、また役に立たないものは生きていても仕方ないということを日本に住む多くの人が内面化してしまっている。そのようなとらえ方で自己も無意識にみているから、役に立たない自分は生きていても仕方ないなどと思う、卑下するということがあるのだろう。私たちはこうしたいのちへの眼差し、あらゆることの受け止めを、もう一度受け止めなおすプロセスが必要なのではないだろうか。
自分が無意識のうちに、身に着け、内面化した視座そのものを問い直す、根底から問い直すことが必要なのであろう。加来先生が言うように、本来宗教の役割というか、私たちが宗教に出会うということはそうした厳粛な意味合いがあるのだと思う。
しかし、宗教というもをそのように受け止めること自体が難しくなっているのだと思う。我々の常識を強化するような方向にも宗教は働くことだってある。例えば家父長制を守ることを強く奨励する宗教団体も多い。しかし、やはり私は、宗教は自己や世界の受け止めそのものを問い直す根底になるべきものだと思う。私たちは常識的に生まれてから身に着けてきた、自己の眼差しそのものを受け止めなおすことが必要である。しかしその時に、何に照らして受け止めなおすのかということが非常に大切なのであろう。

今日、稲垣えみ子さんの『寂しい生活』という本を読んだのだがこの本もすごい本だった。

自分に必要な本だった。自分のために書かれたような本だと思った。読んでいて涙が出てきた。自分が何を粗末にしてきたか。どのように生きてきたかが暴露されたからである。

冷蔵庫がない時代、食べ物の保存には自ずと限界があった。だから人が買えるものにも自ずと限界があった。
ところが冷蔵庫ができたことで、人は「いくらでも」食べ物を買えるようになった。今日食べなくたっていいんだからね。これは食品業界にとっては大チャンスでもある。つまりは、人は食べきれないものまで買うようになったのだ。いつか食べるから大丈夫、というわけである。
もちろん、これをきちんと「いつか」食べるのならなんの問題もない。しかし現実はそうじゃなかった。人は絶えず「いつか」食べるものを買うようになったのである。しつこいようだが、人が食べられる量には所詮は限界がある。だからその多くは廃棄されることになる。簡単に言えば「食の買い捨て文化」を冷蔵庫が作り出したのではないだろうか。大量生産・大量廃棄。これが経済を回してきたのである。
そして、これを個人の側面からみると、冷蔵庫という存在は「生きていくこと」の本質を見えなくしてしまったのではないだろうか。
「食っていく」とは「生きていく」ことである。つまり、食べていくことさえできれば何はともあれ生きていくことができる。格差や貧困が社会問題になり、どんな人だっていつ貧しさに直面するかもしれない時代だからこそ、ここには誰もが関心を持たねばならないポイントである。
つまり、いったいいくらあれば自分は「食っていく」ことができるのかを見極めないと、将来への不安への対処のしようもない。
しかし本当に「食っていける」とはどういうことなのか、ほとんどの人が見失ってしまっている。
スーパーへ行くと、多くの人が目につくままに、「お買い得」とか「特売」とか「大サービス」とかの言葉につられてどんどん商品をカゴの中に入れていく。「いつか」食べればよいのだから。しかしもちろん、その「いつか」は容易に忘れ去られていく。冷蔵庫の中は「いつか食べる食品」で溢れ返り、もはや管理不能である。というよりも、今や、誰もそれをきちんと管理しようとすらしなくなってしまった。
冷蔵庫は「食べる」ということを「生きていくための軸」ではなくしてしまったのだ。
冷蔵庫の中には、買いたいという欲と、食べたいという欲がパンパンに詰まっている。人の欲はとどまることを知らず、その食べ物の多くは実際には食べられることはない。もはやそれは食べ物ではない「何か」なのだ。
冷蔵庫は、その誕生期から比べれば信じられないくらい大きくなっている。それは、人々の欲望の拡大の姿そのものである。
冷蔵庫は私が小さい頃から家にあったが、その頃の冷蔵庫はもう本当に小さなものだった。冷蔵庫など本当に小さなスペースで、アイスクリームなんかを少し入れたらもういっぱいであった。さらにみっしりと霜がついて余計にそのスペースは狭くなるのであった。それでも、我が4人家族の食事はどうということもなく賄われていた。スーパーだって今ほど長時間営業はしていなかったのにもかかわらず、である。
それが今では、都会では24時間営業スーパーだって珍しくない。つまりは外の冷蔵庫もいつだって使用可能なのである。それなのに、どの家庭にもある巨大化した冷蔵庫もパンパンなのだ。
こんな状況では、「食っていく」ことの骨格はみえなくなる一方である。つまり「生きていく」ことはなんなのかが誰にもわからなくなっている。「欲」と「欲じゃないこと」の境目がグズグズになっている。そんな中では、自分にとって「本当に必要なこと」はどんどんわからなくなり、人はぼんやりとした欲望に支配される。ただただ失うことだけをやみくもに恐れるようになるのである。
それが、今の世の中における「不安」の正体なのではないか。
我々が本当に恐れるべきなのは、収入が減ることよりも何よりも、自分自身の欲そのものである。暴走し、もはや自分でもコントロールできなくなったぼんやりとした欲望。
そこから脱出するために必要なのは、何よりもその欲の正体を見つめることだ。自分はどうしたら本当に満足できるのか、そこを見つめることだ。冷蔵庫があるからといって野放図に食品を買いあさり、挙句にその存在さえ把握できなくなっていることが、本当の自分の満足につながっているのかをきちんと考えなければならない。

稲垣えみ子さんの『寂しい生活』pp.142-146

自分の欲のサイズが、分限を超えてしまっている。そして、分限を見えなくさせるシステムの中に我々はいる。だから、何を求めているのかももうわからなくなっている。無限に求めることだけがある。そう稲垣さんは言う。私たちに大事なのは、自分の分限を知ることである。どれほどのものが必要なのか知らなければ、自分が何を本当に求めているのかもわかるはずがない。

(終)
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追記



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