大谷大学名誉教授の加来先生の文章に出会ったが、あまりにも大切な内容である。忘れないようにメモしておきたい。
加来先生の言葉を聞いて思うこと。私たちは、生きるということを受け止めなおす必要があるのではないだろうか?近年、優生思想ということがあらためて問題になってきている。しかし、それは、他人事として存在しているのではなくて、私たちが実は優生思想そのものを内面化し、むしろ優生思想を肯定しているのではないかということが明らかになってきているように思う。例えば、成田悠輔氏が過去に「高齢者は集団自決、集団切腹みたいなことをすればいい」と発言したことに関して、そのことへの批難よりも、むしろネットではそれが肯定的に受け止められるような言説も多い。このことの危険性をどれだけ私たちは自覚しているだろうか。しかし、また役に立たないものは生きていても仕方ないということを日本に住む多くの人が内面化してしまっている。そのようなとらえ方で自己も無意識にみているから、役に立たない自分は生きていても仕方ないなどと思う、卑下するということがあるのだろう。私たちはこうしたいのちへの眼差し、あらゆることの受け止めを、もう一度受け止めなおすプロセスが必要なのではないだろうか。
自分が無意識のうちに、身に着け、内面化した視座そのものを問い直す、根底から問い直すことが必要なのであろう。加来先生が言うように、本来宗教の役割というか、私たちが宗教に出会うということはそうした厳粛な意味合いがあるのだと思う。
しかし、宗教というもをそのように受け止めること自体が難しくなっているのだと思う。我々の常識を強化するような方向にも宗教は働くことだってある。例えば家父長制を守ることを強く奨励する宗教団体も多い。しかし、やはり私は、宗教は自己や世界の受け止めそのものを問い直す根底になるべきものだと思う。私たちは常識的に生まれてから身に着けてきた、自己の眼差しそのものを受け止めなおすことが必要である。しかしその時に、何に照らして受け止めなおすのかということが非常に大切なのであろう。
今日、稲垣えみ子さんの『寂しい生活』という本を読んだのだがこの本もすごい本だった。
自分に必要な本だった。自分のために書かれたような本だと思った。読んでいて涙が出てきた。自分が何を粗末にしてきたか。どのように生きてきたかが暴露されたからである。
自分の欲のサイズが、分限を超えてしまっている。そして、分限を見えなくさせるシステムの中に我々はいる。だから、何を求めているのかももうわからなくなっている。無限に求めることだけがある。そう稲垣さんは言う。私たちに大事なのは、自分の分限を知ることである。どれほどのものが必要なのか知らなければ、自分が何を本当に求めているのかもわかるはずがない。
(終)
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