千葉雅也さんのファッションに関する論考が、自分がずっとモヤモヤしていた今のSNSや、また何かバズを狙おうとする仏教界にもある(自分の中にもある)危なさをすごく言い当てているものだった。非常に考えさせられたので、忘備録的に置いておきたい。(メモのためとてつもなく長いです)
以下抜粋、引用。
今日のファッション文化、および衣服や身体を取り巻く環境
無駄を楽しむことの消失
►ほしい服が出尽くしてしまって、もうほしい服があまり無いという時代に来ている。あと残っているのは昔のアーカイブをリバイバルする事だけという。本当に、有りすぎる時代と言う背景があるのだと感じた。
►ファッションで遊ぶスリルが無くなっている。道徳的、倫理的な方向にファッションを見出すのは息苦しいと指摘される。面白いと思ったのは、ただ富裕層の間で、高価なだけのコラボアイテムのような物を自慢する風潮があるということ。中間層が背伸びをしながら文化を耕していくような形が難しくなっているということ。価値が分からなくなっているということは、文化が乏しくなっているということなのだ。これは、様々なジャンルで言えそうなことだ。とりあえず、みんなが価値があると言っているものに乗ることしかできなくなっている。
何にでもなれるという幻想
►どうにもならないことが人生にはあるということを、いま分からなくなっている。そういう幻想のなかにいると、人間関係の中の気に食わないことの許容度が低くなっている。そして思い通りにならないことを全て思い通りにできるかのような幻想が広がっていることを千葉氏は問題視している。
最先端テクノロジーの普及と、衣服や体をめぐる状況
SNS向けの「わかりやすさ」
►この指摘にすごくうなづかされた。SNSでは目立つものばかりがウケる。
問題なのは、そのことにあらゆる業界が乗っかってしまっているということ。例えばお寺業界も、何とか人を引き付けようと、この分かりやすいバズに乗ってしまっている部分がある。ここにものすごい暴力性があると自分は感じる。お寺がそれをやったら終わりと言うか。お寺がバズをねらったら、何かが終わる。終わってしまうと思う。それって、分かりやすいものをねらいにいくようになったら、絶対に分かりにくいものを切り捨てていくようになるから。だけど仏教ってその、切り捨てられた部分のことをやるはずだし、切り捨てられた人を摂取するようなものだと思う。
ファッションの流通とテクノロジー
服の古代的性質
10年後のファッション、衣服を着用すること、私たちの身体の在り方
悪のファッションはいかに可能か
みんなが欲しがるという問題
►この部分も、すごく大切だと感じる。「今はインターネットでリンクを踏んでしまった人が引っかかりさえすればいいというような商売がたくさんある。」これが本当に現代の問題だと思う。ありとあらゆるジャンルでこういうことが起こっている。で、下手をすると、僧侶の布教とかにおいてもこういうことが起こっていないか。お寺の施策としてもこういうことが、意気揚々と行われていないかと思う。
「人間の意地汚さみたいなものが、2000年代後半から2010年代を通してどんどん前に出てきていると思います。」実はSNSや現代社会のあらゆるところに、こういう意地汚さがあって、その問題がどこにあるのか、どこからそういう心が発生してくるのか。またそういうことによって傷ついているのは誰なのかを凝視していくべきなのが、仏教の役割ではないだろうか。人間存在を凝視していくのが仏教の役割だと感じる。それをやる人は誰なのか。その悲しみを見つめてきたのが仏教徒ではなかったか。しかし、今や仏教に関わる人もその意地汚さに乗ってしまって、その背景にある問題をみようとしない。今日、人々が仏教に何をもとめているのか?と自分も質問されることがあるのだけど、まず仏教徒が「人々が何を求めているのか」ということを狙っていかないことではないだろうか?何と言うかこの辺が難しい、「今日人々は仏教になにをもとめているのですか?」という質問の背景に、バズを狙っている匂いをかぎ取るのである。手っ取り早くウケようとしている。そういう感性を感じる。しかし、まったく逆の方向性を仏教は持っているというか、いうならば安田理深先生が「浄土真宗は流行らないのです」「流行るものはウソです」と言った方向性なんだと思う。安田先生は、お寺は住職の生涯で一人本当に仏教を聞いて生きていく人を育てることが出来たらそれで良いと言ったと聞いたことがあるのだけれど、そういう方向性ではないだろうか。
千葉氏の論考のおかげで、今日わたしがSNSや自分自身のこれまでの活動に感じるモヤモヤ・うさん臭さの正体がはっきりしてきたように思う。とてもありがたい論考を読ませて頂いた。
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(追記)
最近、「どういうことが仏教に求められていますか」とか「どうやったら初めて仏教に触れる人につたわりますか」ということが聞かれることが増えてきた。しかしその背後にあるのは、自分で考えたくないという怠惰があるように思う。そんなことはそれぞれの僧侶が頭をひねって考えるしかないしかし、もっと効率的にそういうことが出来るか知りたいということだと思う。しかしそういう効率性を狙うと、必ずバズを狙うような方向へ行ってしまう。それは布教ではないだろう。
むしろ、そのようなバズや分かりやすさを狙う仏教をみて、嫌になってしまう信徒の方もいるようにおもう。自分が本当に深刻な問題で誰かに話しを聞いてもらいたくてやってきたお寺で、バズを狙う人しかいなかったらどう思うだろうか。そのような人に話を聞いてもらいたいと思うだろうか。
「どういうことが仏教に求められていますか」の答えは、仏教がどのような問題、人間の問題や悲しみを見てきたのかというところに尽きるのではないだろうか。仏教はずっと、差別される人や、病気で亡くなっていく人の苦しみ、そうではなくても、人間の孤独や苦しみを見てきた。そして苦しみの原因があればそれを苦しんでいる人といっしょに抜こうと、寄り添おうとして来たと思う。やるべきことは経典を読みながらそのような人々の苦難に寄り添い、人間の苦しみの原因がどこから来ているのか、現代の問題は何かという言ことを明らかにしてくことではないのか。そして明らかに人間を傷つける問題、例えば戦争や差別などには反対していくという行動をしていく。そのことだけではないだろうか。
だから、SNSの問題であれば、SNSでどう流行らせるかを考えることは僧侶の仕事ではないのではないか。
むしろ、SNS自体が持っている暴力性や非人間性、SNSが人を苦しめているのであれば、その問題を仏教的な視点で考えていくことは誰かがやらなければならないことではないだろうか。