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マンガ表現と仏教の相容れなさⅣ(仏教マンガの問題点再考④)

千葉雅也さんのファッションに関する論考が、自分がずっとモヤモヤしていた今のSNSや、また何かバズを狙おうとする仏教界にもある(自分の中にもある)危なさをすごく言い当てているものだった。非常に考えさせられたので、忘備録的に置いておきたい。(メモのためとてつもなく長いです)

以下抜粋、引用。

今日のファッション文化、および衣服や身体を取り巻く環境

無駄を楽しむことの消失

ファッションについてまず言えることは、今僕はあまりファッションに興味がなくなってしまっているってことなんですよ。欲しい服があまりない。とにかく一通り出尽くしちゃったと思います。ハイファッションとストリート的なもの、あるいは労働服だったりとのミックスがどんどん進んでいって、秩序の転覆が起きて民衆化していったわけですが、そこから考えられるスタイルはおおよそ2000年代に終わってしまった。あとは昔のアーカイブを再解釈するというか、再解釈でもなく、リバイバルですよね。

fashion tech news 2021.04.22

►ほしい服が出尽くしてしまって、もうほしい服があまり無いという時代に来ている。あと残っているのは昔のアーカイブをリバイバルする事だけという。本当に、有りすぎる時代と言う背景があるのだと感じた。

そういう次第で、ファッションの様々な文脈を横断して遊ぶスリルがなくなってしまったと感じています。ところで今、ファッションの産業構造全体に対する批判が溢れています。つまり「無駄に消費するのは良くない」「材料を大事にしましょう」「地球を大事にしましょう」みたいな。でも、そのような道徳的、倫理的な方向に新しいファッションを見出すのは辛気臭いですよね。息苦しいとも思います。かつての「無駄を楽しむ」ようなファッションの余裕が、今はないですよね。その一方で、ネオリベラリズムの中で新興富裕層が、ただ高価なだけのコラボアイテムのようなものを自慢する風潮もあって、二極化している。中間層が背伸びをしながら文化を耕していくような形が、もう難しくなってしまっているのは、日本が貧しくなったからですよね。2000年代はまだ、ここまでの状況ではなかったと思います。

fashion tech news 2021.04.22

►ファッションで遊ぶスリルが無くなっている。道徳的、倫理的な方向にファッションを見出すのは息苦しいと指摘される。面白いと思ったのは、ただ富裕層の間で、高価なだけのコラボアイテムのような物を自慢する風潮があるということ。中間層が背伸びをしながら文化を耕していくような形が難しくなっているということ。価値が分からなくなっているということは、文化が乏しくなっているということなのだ。これは、様々なジャンルで言えそうなことだ。とりあえず、みんなが価値があると言っているものに乗ることしかできなくなっている。

何にでもなれるという幻想

(バーチャルファッションなど、現実の自分の身体に囚われない仮想の身体という考え方に対して)人間にはどうにもならないものがあるというのを認めた上で、それとの緊張関係の中で遊びを考えるのが僕のマイノリティポリティクスです。何にでもなれるというのは耳に心地よいですが、幻想です。自分が持っている様々な限界やどうにもならなさとどう付き合うかに、人生の苦味を含んだ面白さがあるわけです。今日、自分の限界はあたかも乗り越え可能で、人生はどうにでもリセットできるかのような幻想が振りまかれているのはすごく問題だと思います。どうにもならないことが人生にはあるということを、無くそうと思っているわけですよ。こういった幻想の中にいると、人間関係の気に食わないことの許容度が低くなっていくんじゃないでしょうか。つまり自分の人生の中の否定性を我慢できないということが、今、社会全体に広がっている。思い通りにならないことを全て思い通りにできるかのような幻想に、とにかく資本が投下されているという状況があります。これはもう、人間性の否定だと思いますね。 

fashion tech news 2021.04.22

►どうにもならないことが人生にはあるということを、いま分からなくなっている。そういう幻想のなかにいると、人間関係の中の気に食わないことの許容度が低くなっている。そして思い通りにならないことを全て思い通りにできるかのような幻想が広がっていることを千葉氏は問題視している。


最先端テクノロジーの普及と、衣服や体をめぐる状況

SNS向けの「わかりやすさ」

SNSの問題のひとつは、目立つものばかりがウケるようになっていることです。これはよく指摘されることだと思います。たとえば、最近のロゴブームは、80年代のキャラクターブランド的なデザインのリバイバルみたいにも見えますが、SNSで目立つからという理由もあるのでしょう。
要するに、パッと見てステータスが分かることに特化しているわけです。全てが目立てばいいという刺激になっており、文脈を読むとか、微妙な佇まいにこだわるという話ではなくなっている。たとえば、シルエットというのはもっと微妙な問題のはずなのに、一時期のVETEMENTSのような極端なビッグシルエットは、結局SNSでわかりやすいわけです。

fashion tech news 2021.04.22

►この指摘にすごくうなづかされた。SNSでは目立つものばかりがウケる。
問題なのは、そのことにあらゆる業界が乗っかってしまっているということ。例えばお寺業界も、何とか人を引き付けようと、この分かりやすいバズに乗ってしまっている部分がある。ここにものすごい暴力性があると自分は感じる。お寺がそれをやったら終わりと言うか。お寺がバズをねらったら、何かが終わる。終わってしまうと思う。それって、分かりやすいものをねらいにいくようになったら、絶対に分かりにくいものを切り捨てていくようになるから。だけど仏教ってその、切り捨てられた部分のことをやるはずだし、切り捨てられた人を摂取するようなものだと思う。

ファッションの流通とテクノロジー

僕の個人的な希望でいうと、まず単純に、テクノロジーによって流通が効率化されるのはいいことだと思います。でも、それ以上でも以下でもないですね。あとは、今までよりもっと微妙なパターンを作れるとか、織物の模様を新しくするといったテクノロジー主導のデザインが考えられますが、そんなに興味を感じない。人間の服の形はそう大きく変わらないし、その程度の差異の振れ幅に留まると思います。
流通のことで言うと、自動採寸やバーチャルフィッティングみたいなものはうまくいったらいいなと思いますよね。ネット通販ではサイジングが最大の問題なので。100%実現できないにしても、返品を減らせるような試みはあったらいいと思います。

fashion tech news 2021.04.22


服の古代的性質

服の技術的面として僕が重視するのは、薄くて暖かいといった基本的な機能です。服を情報ネットワークに組み込むような発想は勘弁してほしい。これだけ情報化が進んで色々なことを常に気にしなくてはいけないような状況で、ただ服を着てそこに存在しているというだけで余計なことを気にしなきゃいけないなんて地獄です。ただ服を着てそこにいるっていう状況は、余計なことから切断された時間であってほしい。そういう意味で言うと、服というものには依然として、反時代的な、古代的と言ってもいいような時間から取り残されたような性質があるべきだと思います。

fashion tech news 2021.04.22

10年後のファッション、衣服を着用すること、私たちの身体の在り方

悪のファッションはいかに可能か

まず10年後は、もっと地球が暑くなっていますよね。だからおそらく薄着になっていて、冬も暖かくなっているのではないでしょうか。また、エネルギーとか材料の問題、廃棄物の問題が大きくなる。そういった問題の対応はやらざるを得ないことなので、粛々とやるしかないと思います。意匠としてのファッションの面白さは一通り終わっていると思うので、あとは色々なものがリバイバルされて、細かいリミックスが起こり続けるのではないでしょうか。ガングロが復活したりするかもしれない。でも結局、何をやってもそれほど特別じゃない時代になってしまっている。つまり、歴史が終わっている感じがします。ただ、何をやっても新しくない時代と闘うのもまた、ファッションなのではないでしょうか。10年後に意匠の問題で大きな変化は起きていないと思います。変化が起きたとしても一時的なもので、ただデータベースの様々な部分が繰り返すということになると思います。今、環境問題やポリティカルコレクトネスの問題を考慮してファッションの無駄や過剰さが反省される局面に入っていますが、その方向で洗練が進んでいくのが基本線でしょう。それに対して、僕としては、その趨勢全体に抵抗するようなファッションがどうすれば可能か、そういうことをやる人がどうすれば出てくるのかと考えています。それは人類史のある種の「正しい」方向に逆らうようなファッション、つまり悪のファッションです。今後のファッションの世界において悪はいかに可能か。ファッションにおける否定性をどう考えるかということです。否定性をなくせばいいのではない。あるいは、「歴史の終わりと闘うファッション」です。そこに僕は興味がありますね。

fashion tech news 2021.04.22


みんなが欲しがるという問題

消費のスピードが上がることで、ひどい商品は昔よりも増えました。ECのプラットフォームは個々のお店のクオリティを十分審査できないので、ただとにかく売れればいいと思っているようなお店もたくさんあるわけです。今はインターネットでリンクを踏んでしまった人が引っかかりさえすればいいというような商売がたくさんある。人間の意地汚さみたいなものが、2000年代後半から2010年代を通してどんどん前に出てきていると思います。そういう商品を見ると悲しくなります。こんなことのために無駄に繊維を使ったり、流通の労力を使ったりしているのだから。「毛皮を着るな」なんてことよりも、粗悪品を売りつけるような商売を減らしたほうが、よほど環境のためになるのではないかと思います。結局、それは資本主義が悪いのですよ。毛皮にしても、めったに買えないものでなくなり、民主化してみんなが欲しがるようになったから問題になったわけです。今の状況に適応するための技術的な改良はあるとしても、もっと全体として、ファッションの無駄や過剰さ、そして否定性を改めてどう考えていくかが大事だと思います。

fashion tech news 2021.04.22

►この部分も、すごく大切だと感じる。「今はインターネットでリンクを踏んでしまった人が引っかかりさえすればいいというような商売がたくさんある。」これが本当に現代の問題だと思う。ありとあらゆるジャンルでこういうことが起こっている。で、下手をすると、僧侶の布教とかにおいてもこういうことが起こっていないか。お寺の施策としてもこういうことが、意気揚々と行われていないかと思う。

「人間の意地汚さみたいなものが、2000年代後半から2010年代を通してどんどん前に出てきていると思います。」実はSNSや現代社会のあらゆるところに、こういう意地汚さがあって、その問題がどこにあるのか、どこからそういう心が発生してくるのか。またそういうことによって傷ついているのは誰なのかを凝視していくべきなのが、仏教の役割ではないだろうか。人間存在を凝視していくのが仏教の役割だと感じる。それをやる人は誰なのか。その悲しみを見つめてきたのが仏教徒ではなかったか。しかし、今や仏教に関わる人もその意地汚さに乗ってしまって、その背景にある問題をみようとしない。今日、人々が仏教に何をもとめているのか?と自分も質問されることがあるのだけど、まず仏教徒が「人々が何を求めているのか」ということを狙っていかないことではないだろうか?何と言うかこの辺が難しい、「今日人々は仏教になにをもとめているのですか?」という質問の背景に、バズを狙っている匂いをかぎ取るのである。手っ取り早くウケようとしている。そういう感性を感じる。しかし、まったく逆の方向性を仏教は持っているというか、いうならば安田理深先生が「浄土真宗は流行らないのです」「流行るものはウソです」と言った方向性なんだと思う。安田先生は、お寺は住職の生涯で一人本当に仏教を聞いて生きていく人を育てることが出来たらそれで良いと言ったと聞いたことがあるのだけれど、そういう方向性ではないだろうか。

千葉氏の論考のおかげで、今日わたしがSNSや自分自身のこれまでの活動に感じるモヤモヤ・うさん臭さの正体がはっきりしてきたように思う。とてもありがたい論考を読ませて頂いた。

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(追記)
最近、「どういうことが仏教に求められていますか」とか「どうやったら初めて仏教に触れる人につたわりますか」ということが聞かれることが増えてきた。しかしその背後にあるのは、自分で考えたくないという怠惰があるように思う。そんなことはそれぞれの僧侶が頭をひねって考えるしかないしかし、もっと効率的にそういうことが出来るか知りたいということだと思う。しかしそういう効率性を狙うと、必ずバズを狙うような方向へ行ってしまう。それは布教ではないだろう。
むしろ、そのようなバズや分かりやすさを狙う仏教をみて、嫌になってしまう信徒の方もいるようにおもう。自分が本当に深刻な問題で誰かに話しを聞いてもらいたくてやってきたお寺で、バズを狙う人しかいなかったらどう思うだろうか。そのような人に話を聞いてもらいたいと思うだろうか。

「どういうことが仏教に求められていますか」の答えは、仏教がどのような問題、人間の問題や悲しみを見てきたのかというところに尽きるのではないだろうか。仏教はずっと、差別される人や、病気で亡くなっていく人の苦しみ、そうではなくても、人間の孤独や苦しみを見てきた。そして苦しみの原因があればそれを苦しんでいる人といっしょに抜こうと、寄り添おうとして来たと思う。やるべきことは経典を読みながらそのような人々の苦難に寄り添い、人間の苦しみの原因がどこから来ているのか、現代の問題は何かという言ことを明らかにしてくことではないのか。そして明らかに人間を傷つける問題、例えば戦争や差別などには反対していくという行動をしていく。そのことだけではないだろうか。
だから、SNSの問題であれば、SNSでどう流行らせるかを考えることは僧侶の仕事ではないのではないか。
むしろ、SNS自体が持っている暴力性や非人間性、SNSが人を苦しめているのであれば、その問題を仏教的な視点で考えていくことは誰かがやらなければならないことではないだろうか。

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