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アイデンティティの問題


今日4月14日の毎日新聞を読んでいたら次のような記事が載っていた。
パンにまつわる思い出を募集し、投稿した人のコラムである。

負うた弟に教えられ
主婦 宮沢淑子 84歳(大分県)
戦後の小学生時代、あやめせんべいを売る駄菓子屋はあったが、パン屋は無かった。パンの存在と外国人の主食ということは本で知っていたが、実物を見たことはなかった。
中一の頃、近所にレンガの煙突がある小さな店が建った。香ばしい匂いに誘われて中をのぞくと、黄金色に焼けたパンが並んでいた。思わず唾をのみ込んだが、我が家は貧しく、6人きょうだい。買えるはずもなかった。
しかしある日、お膳に6個のコッペパンがあった。作り方を間違えて売り物にならないからと、店主がくれたとのこと。子どもたちは「わあっ」と一気にぱくついた。少し遅れて来た弟だけが、パンを半分に割るや「ほら、母さん」と渡した。「あんたは優しいね」と母が涙ぐんだ時、私は食べ終えていた。
わんぱくでいたずらっ子の弟を、私はいつもしかったり、説教したりしていた。しかし、この時の弟の行動に自分の至らなさが身に染みた。それからは姉さんぶるのをやめた。

毎日新聞20240414朝刊2ページ

なんだか、読んでいて涙が出た。こういうきょうだいものに弱い。
そして、こういうことをちゃんと覚えている宮沢さんはすごいし、同時にそこで、この弟の行動に心が動かされた宮沢さんは、当時貧しかったと思うが、心は本当に豊かだと思った。

頭が下がるということ。弟の行動に頭を下げるのではなくて、頭が下がるということ。頭が下がるものをもつということ。そのこと自体が豊かなことなのだろう。

今、学校でちょうどアイデンティティの問題を扱わなければならなくて、子どもたちにもアイデンティティとは何か教える予定だ。その時、エリクソンなどの西洋のアイデンティティを見ていると、やはり仏教の視点からすれば何かが抜け落ちているようにも感じる。
確固たる自己を作るということ。それは言うまでもなく大切なことである。しかしそれだけでは何か苦しい。そこにはやはり宗教的な視点もひつようなのではないだろうか。自己を確立することも大切かもしれない、しかしもしかしたら、自己の頭が下がるようなものをもつこと。自分の頭が下がるようなものと出会うこと、そっちの方が重要ではないのか?
そういう領域をすっ飛ばしてアイデンティティの確立ということを、現代の子供たちに教えるのは何か非常に息苦しい。自分を知ろうといったところで、自分は確立する自己でしかない。しかし、宮沢さんが弟の行動に頭が下がったように、頭が下がるものに出会って欲しい。そちらの方が何かずっと大切な気がするだ。


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