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日記2023.11.4 情報だけで構成されたもの持つ不気味さ
舞踏家の最上和子さんの発言にとても考えさせられた。
AI画像の不気味さって、情報だけで何かを作るとこうなる、という、悪い例が凝縮して現れているような気がする。自己増殖する癌細胞みたい。人間だって、情報だけでものを考えると、無気味な存在になるのだろうと思った。ものを作るって材料は情報だけじゃないものね。
— 最上和子 (@walhallahlaw) November 3, 2023
この発言はおそらく、岸田首相の偽映像がAIで作成されて問題になっているというニュースを見てなされたものだと思う。
自分も今朝、このニュースを見て恐ろしい気持ちになった。
偽の映像を作って、その映像に何でも言わせられるようになる。フェイク画像は既に問題になっているが、改めてこのことの不気味さを思う。人間は本当に進歩しているのか。技術だけが進歩して逆に人間の迷いがどんどん深くなっているように思う。自分が作った技術によって、何が本物かわからなくなってしまう。かつては存在していた、とりあえず信頼するということの、基盤すら崩壊しかねない。恐らく、このようなことが続けば、権力者が逆に自己の失態を、あれはフェイクだとして隠していくことにも応用されていくだろう。そのことが恐ろしい。
そうして、不気味に思っていたところに、最上さんの発言があり、別の観点から問題の大きさを知らされたように思う。
情報だけで構成された映像が不気味だという。これはとてもわかる話だ。情報だけで作られたなにかは不気味なのである。
これは、学校の授業や、仏教の法話にも当てはまる。生活の観点がなく、ただただ事実や、調べた言葉だけで構成された授業や、法話は少し怖い。そして自分はよくそれをやってしまう。言葉と理論だけで構成すればいいでしょうと思って授業や法話を作る。そうするとそれは何か名づけようのないから恐ろしさを持ってしまう。そういうことだったのだと腑に落ちた。自分の授業がどうも生徒から不評だったのは、ここに原因があったのかもしれないと思う。情報だけで構成された授業だったのだ。
授業を構成するものは情報だけではない。人間自体が情報だけで構成されているわけではないのだ。人と人、生徒と教員の間で生まれるものが授業であるはずだ。
宮城顗先生の言葉を思い出す。
私自身が自分の生活の中で、人間として生きていくということが本質的に抱え持っている悲しみ、一言で言ってしまいますと、人間であるということの悲しみにふれるたびに、親鸞の言葉に帰り、聞き直すということをしてまいりました。そして、そのたびに、私はいつもその親鸞の中に、もっと深く悲しみを受けとめて歩み続けておられる姿を見出してきました。考えてみますと、人間であることの悲しみを深く知る心だけが、周りの人に対して、心やさしく、人の悲しみに寄り添っていける心ではないかと思います。
人間であることの悲しみということを知る心のところでのみ、私たちの対話が本当の意味で成り立つということは何か本当のことを言っているように思う。
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