『ひとりふたり』という仏教雑誌をよんでいたら考えさせられる記事があったので、引用したい。
冒頭にある、シュマッハ―の言葉に何か響くものがある。「あまりにも少ない富しか持たない貧しい社会は存在するが、「止まれ、もう十分だ」という富める社会はどこにあるのだろうか。」また、引用されている短歌にもとても考えさせられる。「一生とは ないものねだりの 歳月か 得ればすぐ慣れ 無くして欲しがる」
止まれ、もう十分だ…こうした心こそが自分が、そして現代社会が必要にしているものなのではないかとおもうのだ。止まれない事によって、自分を傷つけ、環境を破壊しながら苦しんでいる。
そのことに「そんなの仕方ないじゃん」と言って、諦めてしまうのだけど。
渡邉氏は過去の先人にまなびながら、そうではなく「英知」が必要なのだという。本当にその通りだろう。私たちは油断すればというか、何もしていなかったらすぐに「そんなの仕方ない」と言ってしまう。「人間なんてそんなものだよ」と。しかし、そこであきらめずに何か違う道を模索するところ、立ち止まる所に大切なことがあるのだろう。それが自分をつくるというか。それが無ければただ消費するお化けでしかなく、消費だけが自分のアイデンティティになってしまうのではないか。
今朝朝起きて「Yahoo!ニュース」を見たらとても暗い気持ちになった。
トップニュースが「防衛省が長距離の潜水艦の武器を開発へ」というものだった。あまりに悲しくなる。これは、20世紀の戦時中のニュースなのかと思ったが、そうではなく、今まさに起きていることなのだ。そのことが何かある意味で国が素晴らしいことをしているかのようなノリで、何の批判もなくトップニュースになる。こうして私たちは少しずつ戦争になれさせられていくのではないだろうか…。
どんな社会を私たちはつくってきたのか。この武器を開発するお金で、子どもたちが伸び伸び学べる学校をつくるとか、教員の負担を軽減するとかだってきっとできるはずだ。どうしてその逆になっているのか。そのことが悲しくてたまらない。そして、次のニュースが、「大阪のカジノIR政府が認定へ」というものだ。ここで再び、前掲のシュマッハ―の言葉を思い出した。「もう十分だ…」カジノなんていらない。もっともっと、満足できない…そうしたニュースの連続に慣らされていっている。
ちょっとずつ、私たちは慣らされて行っている。戦争する社会に。立場の弱いものの存在を無視して自分たちの利権をむさぼる社会に。そのことが、日常にひたひたと入り込んでいること、それがだんだん自分の中でも当たり前になっていることに恐怖する。