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「止まれ、もう十分だ」という富める社会はどこにあるのか

『ひとりふたり』という仏教雑誌をよんでいたら考えさせられる記事があったので、引用したい。

自己とは他なし。絶対無限の妙用に乗託して、任運に法爾にこの現前の境遇に落在するもの、即ち是なり。

安冨信哉編『清沢満之集』岩波書店、三六頁

あまりにも少ない富しか持たない貧しい社会は存在するが、「止まれ、もう十分だ」という富める社会はどこにあるのだろうか。

E・F・シュマッハ― 出典『人間復興の経済』佑学社、一八頁

吾人は絶対無限を追及せずして満足し得るものなるや。

清沢満之 出典安冨信哉編『清沢満之集』岩波書店、三四頁

今回、人間(有限なる、この私)は、「何のために生きるのか」を考えます。GNP(国民総生産)の向上追及という視点のみからでは、その問いへの答えは得られないという提起を受けて、その解決への展望を、先学の学びに確かめようとするものです。そこで、シュマッハーの「人間の本質は、GNPによってのみ計られうるものではない」(前掲書一四頁)と問題提起された内容(この提起は一九六〇年代にされた)が、今あらためて世界各国から注目されることになっています。シュマッハーは、続いて「「学びの社会」の時代に入った。これは確かに真実であることを希望しよう。それでも、われわれ人間仲間とだけでなく、自然ともいかにして調和して生きるか」(前掲書一五頁)とも付け加えて、そしてその学びの内容を次のようにも指摘しています。「人間が必要とするものは、無限であり、その無限性は精神的領域においてのみ達成でき、物質の領域(GNP)では決して達成できない。〔引用者註。GNPのみが基準となれば、〕人間はこの単調な”世の中”で身を処する以外にない。英知がその道を教えてくれる。その英知がなければ、彼は世の中を破壊するお化けのような経済を作り上げることに駆り立てられて」行く以外に道はない。(前掲書二八頁)このシュマッハ―の指摘している「単調な”世の中”」については、最近、新聞の短歌欄に掲載された、現代に生きる実感をよく表現している沼沢修さんの作品を紹介します。「一生とは ないものねだりの 歳月か 得ればすぐ慣れ 無くして欲しがる」(「朝日歌檀」平成三一年四月七日)われわれは「結局、色んな物を次から次へと手に入れていくわけですが、結局は、ないもの、今手にしていないだけのことで、手にいれれば、もう「当たり前」となってしまい、すぐ次の物が欲しくなる」。それがGNPが作りだそうとしている社会、世界ではないのかと。これでは、欲望に私は使われ、主体性を失っていくのみではないか。つまり、GNPという目標は、結局、不満を拡大再生産する基準にすぎないとも言える。それでは、シュマッハ―の指摘する「英知」とは何を指しているのでしょう。ここで、今こそ「吾人は絶対無限を追及せずして満足し得るもの」なのだろうかとの、清沢満之の問いに帰らねばならないのではないでしょうか。太陽、大地、雲、酸素、植物などから作られている自然(これこそ、私の身といのちを育ててくれている縁)、つまり地上における「絶対無限のハタラキ(妙用)」を象徴するものと言えるのです。すでに清沢満之は先ほど紹介しましたように、「絶対無限の妙用に乗託」する自己を見い出したのです。なぜ人間は、苦悩から解放されないでいるのか。それは、すでに「私が絶対無限のハタラキの中に存在」しているにもかかわらず、私が「無明」(その事実に気づけない=従って無明とは何かと問えない)の存在であるということなのでしょう。『歎異抄』第七条には、「念仏者は無碍の一道なり」と記されています。私どもに求められていることは「絶対無限の妙用に乗託して生活をしている、つまり生きている」という事実に気づいて、今ここでその境地に立てるのかどうか。それが問われているのではないでしょうか。

渡邉晃純『ひとりふたり』第166号、2023年

冒頭にある、シュマッハ―の言葉に何か響くものがある。「あまりにも少ない富しか持たない貧しい社会は存在するが、「止まれ、もう十分だ」という富める社会はどこにあるのだろうか。」また、引用されている短歌にもとても考えさせられる。「一生とは ないものねだりの 歳月か 得ればすぐ慣れ 無くして欲しがる」

止まれ、もう十分だ…こうした心こそが自分が、そして現代社会が必要にしているものなのではないかとおもうのだ。止まれない事によって、自分を傷つけ、環境を破壊しながら苦しんでいる。
そのことに「そんなの仕方ないじゃん」と言って、諦めてしまうのだけど。
渡邉氏は過去の先人にまなびながら、そうではなく「英知」が必要なのだという。本当にその通りだろう。私たちは油断すればというか、何もしていなかったらすぐに「そんなの仕方ない」と言ってしまう。「人間なんてそんなものだよ」と。しかし、そこであきらめずに何か違う道を模索するところ、立ち止まる所に大切なことがあるのだろう。それが自分をつくるというか。それが無ければただ消費するお化けでしかなく、消費だけが自分のアイデンティティになってしまうのではないか。

今朝朝起きて「Yahoo!ニュース」を見たらとても暗い気持ちになった。
トップニュースが「防衛省が長距離の潜水艦の武器を開発へ」というものだった。あまりに悲しくなる。これは、20世紀の戦時中のニュースなのかと思ったが、そうではなく、今まさに起きていることなのだ。そのことが何かある意味で国が素晴らしいことをしているかのようなノリで、何の批判もなくトップニュースになる。こうして私たちは少しずつ戦争になれさせられていくのではないだろうか…。

どんな社会を私たちはつくってきたのか。この武器を開発するお金で、子どもたちが伸び伸び学べる学校をつくるとか、教員の負担を軽減するとかだってきっとできるはずだ。どうしてその逆になっているのか。そのことが悲しくてたまらない。そして、次のニュースが、「大阪のカジノIR政府が認定へ」というものだ。ここで再び、前掲のシュマッハ―の言葉を思い出した。「もう十分だ…」カジノなんていらない。もっともっと、満足できない…そうしたニュースの連続に慣らされていっている。

ちょっとずつ、私たちは慣らされて行っている。戦争する社会に。立場の弱いものの存在を無視して自分たちの利権をむさぼる社会に。そのことが、日常にひたひたと入り込んでいること、それがだんだん自分の中でも当たり前になっていることに恐怖する。






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