池田真氏の「還相廻向の問題」という論考を読んでいて、大事だと思った文章をメモしておきたい。
非常に厳粛な話であると思った。私たちの実際の救済は、他の人々も皆が兄弟だと言えた時、見出す力を戴いた時ではないかと池田氏は提起しているように思う。還相廻向を未来的にとらえて、そこに於て利他が実現されるという見方は一種の神話的表現ではないか、ということもとても大事な指摘である。それは、決して私達自身が確認することは出来ない。しかし願いとして見いだされる世界としては確かにある。神話とはばかげたおとぎ話ではない。ある種の事実がその中にあるのであろう。
兄弟でないものがいるのか。
そして、それと呼応するように、今日たまたま読んだ本の一節が心に残った。
ブナの種は180万個に一本しか成熟した木にならないという。途方もないことである。これを聞いたときに、親鸞が「一切の有情は皆もって世々生生の父母兄弟なり」といったことを思い起こされた。
勝ち残った命だけが人生を謳歌し、過去の生きられなかった命を忘れ、あるいはその歴史を消して、幸せになることなどできないのではないかとあらためて思う。それは無理なのだけれども、生まれることの出来なかった命をも含めたわが身の命であるということを忘れない、憶念する。その中にとても大切なことがあるし、そういうこと抜きで、我々が生きていることが当たり前になって、人生を謳歌するなどできるのだろうか?成り立つのだろうか?何かそういう問題が歎異抄5条で言われている気がする。
終