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一切の有情はみな兄弟なり

池田真氏の「還相廻向の問題」という論考を読んでいて、大事だと思った文章をメモしておきたい。

私は、親鸞が浄土論(本願力回向)・論註(往還二種回向)に依って、本願成就文を理解し「至心に回向せしめたまへり」と読んだだけでなく、教巻の冒頭に
謹んで浄土真宗を案ずるに二種の回向あり。一には往相、二には還相なり。往相の回向について真実の教行信証あり。
と、浄土真宗という仏道を宣説した意味に注目したい。
寺川氏がわれわれ衆生の行信は如来清浄願心の回向成就したものにほかならない故に、浄土真宗を「回向の仏道」といわれることももちろん意味のあることと思うが、私は基本的に「回向」とは、あくまでわれわれ衆生を本願の念仏を依り処として自立し独立させ、もって共に仏道に向かわしめることにその目的と願いがあると考えている。いうならば、Help to self helpとしての働きである。
もとより、それは勝手な思い付きでいうことではなく、行巻の両重因縁釈には、
……真実の業識、これすなわち内因とす。光明名の父母、これすなわち外縁とす。内外の因縁和合して、報土の真身を得証す。故に宗師は…また念仏成仏これ真宗と云えり。また真宗遇いがたしと云えるおや、知るべし。
と述べる。われわれは名号を聞くという縁にあわなければ信心にめざめるということもない。しかし、ひとたび信心が発起したならば、信心が往生浄土の内因となり、光明名号の父号は外縁、念仏の子を育てる増上縁となるというのである。本願内存在・如来内存在といっても、それは如来の懐に抱かれていつまでも甘えていることではないはずである。
私は浄土真宗という仏道は、新しい主体を形成し真の独立者を生み出す道であると言えると思う。そしてその道は一方通行の道ではなく、往き来のある「往還道」であるところに大きな意味があると考える。
即ち浄土真宗なる往還道を歩むには、一つには終わりのない歩み、限りない生を生きるということである。「もうこれでよし」ととどまらぬ世界を生きることである。親鸞の明かした正定聚不退の位に住すということも、仏になるに定まったくらいに安住してしまうことではなく、むしろそこから、煩悩をかかえたこれまでの自分と少しも変らぬこの身をもちながら、常にその身が如来の智慧の光にてらされ否定せられる中で、浄土をめざしてこの世を歩み始めるという新しい生活を創造してゆくことであるにちがいない。
そして二つには、この往還道において真の出会いが生まれ、新しい人間関係が成立するのである。そこには、寺川氏の強調するよき人との値遇ということももちろんある。応化身と仰ぐほどのよき人に出遇えるということは、念仏の教えがそのよき人を通して私にまで届いたその歴史に目が開くということであり、その歴史の流れに自ら参与することでもある。
また歎異抄第五章には、「一切の有情はみなもて世々生生の父母兄弟なり」という。そのこころについて、ある信仰誌を読んで教えられたので、それを紹介したいと思う。
その方はぼうこうガンで死を目前にした方(医師六三歳)であるが、見舞いにこられた人に「親より先に死んで親不孝で申し訳ございません」とお詫びをいうと、傍らにいた母が「親とか子とか差別はない。みな親であり子である」といわれ、その言葉にこの方は深い感動を覚えたと語っている。
私はこれを読んで、死んだ後、還相の菩薩となって有縁の人々を助けるというのは一種のいわば神話的表現(武内義範氏流にいえば逆説的)であって、事実は「一切の有情はみな兄弟なり」といい切れた時、「同一に念仏して別の道なきが故に、遠く通ずるにそれ四海の内みな兄弟とするなり」(論註)という「われら」の世界が見開かれたその時、真実の救いは成就される、そのことが真宗の救いの要ではないかと思われることである。

池田真氏「還相廻向の問題」『現代における信と実践』、龍谷大学大学院信楽ゼミ、一九八八年。

非常に厳粛な話であると思った。私たちの実際の救済は、他の人々も皆が兄弟だと言えた時、見出す力を戴いた時ではないかと池田氏は提起しているように思う。還相廻向を未来的にとらえて、そこに於て利他が実現されるという見方は一種の神話的表現ではないか、ということもとても大事な指摘である。それは、決して私達自身が確認することは出来ない。しかし願いとして見いだされる世界としては確かにある。神話とはばかげたおとぎ話ではない。ある種の事実がその中にあるのであろう。

兄弟でないものがいるのか。
そして、それと呼応するように、今日たまたま読んだ本の一節が心に残った。

一本のブナは五年ごとに少なくとも三万の実を落とす。立っている場所の光の量にもよるが、樹齢八〇年から一五〇年で繁殖ができるようになる。寿命を四〇〇年とした場合、その木は少なくとも六〇回ほど受精し、一八〇万個の実をつける計算だ。そのうち成熟した木に育つのはたった一本--それですら森にとってはとてもラッキーなことで、宝くじの一等を当てたようなものといえる。残りの種や苗は動物に食べられたり、菌に分解される。
生存率がもっと低い木もある。たとえばポプラは毎年最大で二六〇〇万個の種をつくる。自分がブナだったらよかったのに、とポプラの種は思っていることだろう。なにしろ、大人のポプラは寿命がくるまでに一〇億を超える種をつくり、綿に包んで風に飛ばす。それでも統計上はたった一本しか勝者はいないのだから。

ペーター・ヴォールレーベン『樹木たちの知られざる生活 森林管理官が聴いた森の声』39-40頁

ブナの種は180万個に一本しか成熟した木にならないという。途方もないことである。これを聞いたときに、親鸞が「一切の有情は皆もって世々生生の父母兄弟なり」といったことを思い起こされた。
勝ち残った命だけが人生を謳歌し、過去の生きられなかった命を忘れ、あるいはその歴史を消して、幸せになることなどできないのではないかとあらためて思う。それは無理なのだけれども、生まれることの出来なかった命をも含めたわが身の命であるということを忘れない、憶念する。その中にとても大切なことがあるし、そういうこと抜きで、我々が生きていることが当たり前になって、人生を謳歌するなどできるのだろうか?成り立つのだろうか?何かそういう問題が歎異抄5条で言われている気がする。

(注)
歎異抄5条本文
第五条
 一 親鸞は父母の孝養のためとて、一返にても念仏申したること、 いまだ候はず。そのゆゑは、一切の有情はみなもつて世々生々の父 母・兄弟なり。いづれもいづれも、この順次生に仏に成りてたすけ 候ふべきなり。わがちからにてはげむ善にても候はばこそ、念仏を 回向して父母をもたすけ候はめ。ただ自力をすてて、いそぎ浄土の さとりをひらきなば、六道・四生のあひだ、いづれの業苦にしづめ りとも、神通方便をもつて、まづ有縁を度すべきなりと云々。

唯円『歎異抄』


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