見出し画像

共にが共ににならないという問題を教えられた記事

親鸞は、『教行信証』 「化身土巻」に道綽禅師の『安楽集』を引用されている。それによると、末法の時代にはいると、次のようになると言われている。

経の住滅を弁ぜば、いわく釈迦牟尼仏一代、正法五百年、像法一千年、末法一万年には衆生減じ尽き、諸経ことごとく滅せん。如来、痛焼の衆生を悲哀して、特にこの経を留めて、止住せんこと百年ならん、と。
【現代語訳】またこう云われている。経のなかで住まるものと滅びるものとを弁けるならば、つまり釈迦牟尼仏〔在世〕の一代、正法の五百年、像法の一千年、末法の一万年〔が経過した後〕には衆生が減じ尽き、あらゆる経がことごとく滅するだろう。〔そこで釈尊〕は、苦痛〔の炎〕に焼かれる衆生を悲しみ哀れんで、特にこの経(無量寿経)を百年とどめるだろう、と。

『聖典』p.359、『解読教行信証』下巻p.155

また云わく、『大集経』に云わく、「我が末法の時の中の衆生、行を起こし道を修せんに、未だ一人も得るものあらじ」と。当今、末法にしてこれ五濁悪世なり。ただ浄土の一門ありて通入すべき路なり、と。已上
【現代語訳】またこう云われている。『大集経』にこう云われている。「私(釈尊)の〔滅後、〕末法の時の中の数限りない衆生が、行をもとめ、道を修めようとしても、一人として〔さとりを〕得る者はあるまい」と。まさに今は、末法であって五濁悪世である。ただ浄土の一門のみあって、〔さとりに〕通じ〔皆が〕入ることのできる路である、と。已上

『聖典』p.359、『解読教行信証』下巻p.156


教学研究所から発行されている『ともしび』2019年9月号を読んでいたら、この言葉が紹介されていた。著者の佐野氏は、「聞くものがいなくなるということです。聞くものがいなくなると、そこに道を求める者がいなくなるということになります。末法において減尽していくような衆生を、道綽禅師はさらに「痛焼の衆生」という言葉でお示しになっています。…末法には衆生がいなくなったということが、「痛焼の衆生」という言い方で示されているのです。」と示されている。
非常に重い言葉である。

そしてさらに、

人間が人間になっていくと言いましても、もし、ここからここまでが人間だと規定したら、その途端に規定外のものを生み出し、人間と認めないことになります。こういう人間を不幸だ、幸せだと、こちらから決めた途端に、そうでないものは排除されるのです。
本願は十方衆生を救うと誓っているので、浄土真宗の教えを聞くと、「皆」とか「共に」とか「われら」という言葉がよく出てきます。…
本願からすると「皆」「共に」というのはその通りなのですが、私達がこの言葉を使った時には、閉鎖的な意味をもつことがあります。「共に」とは、一体誰と共になのでしょうか。ほとんどの場合、私の視点で言う「私と共に」でしょう。「共に何々しましょう」と言った時に、その人が自分と共にしてほしいわけです。そういう「共に」というのは押し付けや勧誘になってしまいます。「皆」「共に」「われら」といった言葉を私たちが好きなのは、自分が社会やシステムや共同体の中に自分の存在を見出したいという無意識的な発想があるからです。

佐野氏『ともしび』2019年9月号、p.7

共にというとき、それが如来の言葉であればいいが、私達が共にというとき、やはりそこには私から見た共なる存在、自我関心から見た共にであって、そこでは、すべての衆生というものが抜け落ちているのではないかと問題提起されているように思う。これは本当にそう思う。私達がみんなと仲良くしようというとき、そこにはそもそも抜け落ちている者がいる。共にと言ったとたんにそうなってしまう構造があるというのだ。ここから考えないといけない。共に悩むと言っても、その共には本当に共に成っているのかということを考えさせられた。


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?