親鸞は、『教行信証』 「化身土巻」に道綽禅師の『安楽集』を引用されている。それによると、末法の時代にはいると、次のようになると言われている。
教学研究所から発行されている『ともしび』2019年9月号を読んでいたら、この言葉が紹介されていた。著者の佐野氏は、「聞くものがいなくなるということです。聞くものがいなくなると、そこに道を求める者がいなくなるということになります。末法において減尽していくような衆生を、道綽禅師はさらに「痛焼の衆生」という言葉でお示しになっています。…末法には衆生がいなくなったということが、「痛焼の衆生」という言い方で示されているのです。」と示されている。
非常に重い言葉である。
そしてさらに、
共にというとき、それが如来の言葉であればいいが、私達が共にというとき、やはりそこには私から見た共なる存在、自我関心から見た共にであって、そこでは、すべての衆生というものが抜け落ちているのではないかと問題提起されているように思う。これは本当にそう思う。私達がみんなと仲良くしようというとき、そこにはそもそも抜け落ちている者がいる。共にと言ったとたんにそうなってしまう構造があるというのだ。ここから考えないといけない。共に悩むと言っても、その共には本当に共に成っているのかということを考えさせられた。