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本当の利益とは~自重存在~

安田理深先生の『存在の故郷 浄土』を読んでいる。難しいが何か本当に大切な問題、人間の根本問題を直接掘っているという事を感じる。教養や知識とは一線を画す鋭い言葉である。

仏法は法によって自己を見出す
宗教は主体を見いだす道であるが、仏教は法によって自己を見いだす道を教える。人間は意識をもち、不安を感じ、また自覚をもつものである。自分なしに生きているということも自覚である。安のみでなく、不安というのも自覚である。このようなところに人間というものがある。要は自己を自覚して生きているということである。そこに人間が尊いということがある。自分が尊いということは自慢ではない。自重である。威張るのではない。人間の境遇を得たことが、かたじけないということである。自覚するチャンスを得たことをいうのである。
その機をつかむのが人間の理性である。「人身受けがたし、今已に受く」ということが、それをいう。また、そのようなところにこそ自重が生まれる。現代は自重者がいないことが非痛事である。
宗教心は人間をしかたのないものとするのではない。慢心は常に警戒しつつも、いかなる為政者にもへつらわず、また、たとえ自らをいかに愚と知るとも、その愚に破れないところを見いださしめるものである。自己尊重ということは、まったく宗教心によってのみ得られることである。賢者も賢に自惚れず、愚と知りつつ愚に自卑しない。いかなる境遇にも、境遇によって増減することのない自分自身というものを見いだすところに、宗教心がある。だから、宗教心は本当の自利の道を支えているものである。
もちろん自利であって、我利ではない。自己を得たということこそ最高の利益である。もっとも今日は、皆、我利に迷って、自利を忘失しているようである。

『安田理深講義集4 存在の故郷浄土』大法輪閣2000年、43-44頁


「自分が尊いということは自慢ではない。自重である。威張るのではない。人間の境遇を得たことが、かたじけないということである。」
本当にそうだよな、宗教心に目覚めるということは、もう自慢する必要がなくなるということだ。威張る必要がなくなるという事なんだ。

宗教心は人間をしかたのないものとするのではない。慢心は常に警戒しつつも、いかなる為政者にもへつらわず、また、たとえ自らをいかに愚と知るとも、その愚に破れないところを見いださしめるものである。自己尊重ということは、まったく宗教心によってのみ得られることである。賢者も賢に自惚れず、愚と知りつつ愚に自卑しない。いかなる境遇にも、境遇によって増減することのない自分自身というものを見いだすところに、宗教心がある。」

これも、本当に大変な言葉である。自己尊重ということは、宗教心によってのみ得られる。つまりは、世間の問題で何かと得られる自尊心という事は本当の自尊心にはならないということではないか。自分は何者とも、そもそも比べる必要のない、かけがえのないものであるという確信を得たときに、初めて自己を愚かと知りつつ、自己を卑下する必要がなくなる。

本当に立派な先生は、自慢もしないが、卑下もしない。それは、自分を超えた世界に向き合っているからだと思う。それを握っているのではなくて、自分を支えている大地があると知った。そしたらもうそこにおいて、愚かさや賢さを他人と比べても仕方がない。そんな場合ではない。それが自重ということであろう。現代のわれわれには比較しかない、比較でしか自己を見いだせない、自重という事がそもそもわからない。そこに悲劇がある。

この言葉にはかなり驚いた。人間に生まれたということの意味を本当に受け止めたいという宗教心に目覚めたとき、人は自重するのだ。自重というのは、卑下をしたり、自慢したりしたくなる自分を心を思いとどまり、いかなる存在だったかをもう一度思い起こすという作業を怠らないという事であろう。それは厳しい生き方かもしれないが、それこそが本当に自分を大切にするということではないか。卑下や自慢をしない、自重をする、そのことがどれほど自分にとって大切なのか。このことが、いわゆる自己肯定感の本当の源泉ではないか…
本当の利益とは、自重する生き方が恵まれるということなのではないか…


学問も我々を迷わせる。学問の嫌いなものはいない。人間は学問が本来好きなものである。人間は本来知りたいという要求をもっている。教養は一つの本能である。ただ宗教には興味がない。しかし、学問の要求とか、美の要求とかは、何も指導をしなくてもあるものである。それ程人間は逃避する材料をいろいろともっている。そのために、向こうに突破していく力がない。

『安田理深講義集4 存在の故郷浄土』大法輪閣2000年、96頁


価値を超えた存在の意味
招喚ということをキリスト教的に考えると、人間を超えた他者からの招喚のように思う。しかし、我々を招喚するのは我々自身である。我々は却下に招喚されて、そこから出直さないと、すべて問題にならない。却下を忘れたのを妄想という。「念仏のみぞまことにておわします」といわれるが、「まこと」とは妄想でないことである。思いというものが「そらごとたわごと」といわれるのに対して、「まこと」と書いてある。そらごとあわごとである思いを、思い知らされる。それが自覚の意味である。思いを思い知らされることによって、思いを超えたものにふれる。それが本願である。存在が存在自身を開いて、我々に告げるという言葉が念仏である。いわゆる本願のロゴスである。
人間は卑下や自慢のコンプレックスを超えて、凡夫の身に帰り、そこではじめて威張る必要もないし、遠慮する必要もないものとなる。私だけは駄目とか、私だけ偉いという「だけ」を否定する言葉を「悉有」という。どんな無価値な存在も存在している。身体的価値のないのを貧しいという。精神的価値のないのを愚かという。貧しく愚かであっても生きている。生きていることの価値は失っても、意味はもっている。価値の有無にかかわらず平等の意味をもつ。人間の存在に悉有であるような意味、それが本がである。
実は業の形而上学的な意味は本願である。そこがハイマートを示している。それが浄土ということである。価値の夢から覚めてみれば、あるがままで満ちあふれている。ほかに求める必要がない。それが存在の意味を見いだしたことである。我々がどうかしようと思う、そのもとに帰ってみれば、そこにどうする必要もない、本来与えられた悉有、本来の一つの世界がある。これが存在の意味である。名号だとか、浄土だとか、信心だとか、いろいろな仏教の教理概念があるが、それは何をあらわすかというと、存在の意味を語っている。それが宗教問題である。宗教問題が人間の根本問題である。そこからでてこなければ、話はすべて無駄である。存在の意味によって、病気が癒されるのであって、それを救いという言葉であらわす。救いには価値は無用である。救いという問題に関しては、いかなる価値も役に立たない。価値があるものも役に立たぬし、価値のないのもさまたげないという、そういう点が我々に迫っている宗教問題である。

『上掲書』pp.104-106


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