安田理深先生の『存在の故郷 浄土』を読んでいる。難しいが何か本当に大切な問題、人間の根本問題を直接掘っているという事を感じる。教養や知識とは一線を画す鋭い言葉である。
「自分が尊いということは自慢ではない。自重である。威張るのではない。人間の境遇を得たことが、かたじけないということである。」
本当にそうだよな、宗教心に目覚めるということは、もう自慢する必要がなくなるということだ。威張る必要がなくなるという事なんだ。
「宗教心は人間をしかたのないものとするのではない。慢心は常に警戒しつつも、いかなる為政者にもへつらわず、また、たとえ自らをいかに愚と知るとも、その愚に破れないところを見いださしめるものである。自己尊重ということは、まったく宗教心によってのみ得られることである。賢者も賢に自惚れず、愚と知りつつ愚に自卑しない。いかなる境遇にも、境遇によって増減することのない自分自身というものを見いだすところに、宗教心がある。」
これも、本当に大変な言葉である。自己尊重ということは、宗教心によってのみ得られる。つまりは、世間の問題で何かと得られる自尊心という事は本当の自尊心にはならないということではないか。自分は何者とも、そもそも比べる必要のない、かけがえのないものであるという確信を得たときに、初めて自己を愚かと知りつつ、自己を卑下する必要がなくなる。
本当に立派な先生は、自慢もしないが、卑下もしない。それは、自分を超えた世界に向き合っているからだと思う。それを握っているのではなくて、自分を支えている大地があると知った。そしたらもうそこにおいて、愚かさや賢さを他人と比べても仕方がない。そんな場合ではない。それが自重ということであろう。現代のわれわれには比較しかない、比較でしか自己を見いだせない、自重という事がそもそもわからない。そこに悲劇がある。
この言葉にはかなり驚いた。人間に生まれたということの意味を本当に受け止めたいという宗教心に目覚めたとき、人は自重するのだ。自重というのは、卑下をしたり、自慢したりしたくなる自分を心を思いとどまり、いかなる存在だったかをもう一度思い起こすという作業を怠らないという事であろう。それは厳しい生き方かもしれないが、それこそが本当に自分を大切にするということではないか。卑下や自慢をしない、自重をする、そのことがどれほど自分にとって大切なのか。このことが、いわゆる自己肯定感の本当の源泉ではないか…
本当の利益とは、自重する生き方が恵まれるということなのではないか…