「わかりやすいほうがいい」
「若い人はわかりやすい仏教の教えを求めている」
こういう言説を聞くことがあるが、これは本当なのだろうか?
若い人をなめているのではないだろうか?
「わかりやすさ」に辟易しているということもあるのではないだろうか?
例えば生徒たちの中には「僕(私)コミュ障なんです」という者がいる。
しかし、「コミュ障」という言葉で自分をわかりやすくまとめてはいけない。
「あなたはコミュ障なんて言う言葉でくくれないもっと複雑な存在なんだ」という言葉によって救われる子供もいるのではないかと考える。
私たちは、本当はもっと複雑に、他者や自分を理解したいという心もあるのではないだろうか。だからこそ、他人と長い時間、共に居ることが必要なわけで、すぐに相手のことが分かるのだったら、一緒に時間を過ごす必要すらないのである。分からないから、長い間時間を共にするということもあるのだろう。もう私たちはインスタントな分かり方、分かりやすさに辟易しているのではないか?
あなたはそんなシンプルで分かりやすくない、もっと複雑なんだよって。
ところが僕たちは、自分も他人も分かりやすく説明することに慣れすぎてしまっている。
大切なのは自分をもっと複雑にみていくことであろう。
仏教の教えだってそんなにわかりやすいものではない
しかしだからこそ取り組みがいがあるということがある。
「わかりやすいが良い」 を一旦疑ってみたい。
人間の複雑さを知るということは、人間の厳粛さを知るということでもある。
確かに、己の知恵や、思考は浅はかなものかもしれない。
しかしその存在は、深いものである。親鸞は深という一字で、罪の人間をおさえている。
(終)