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日記2023.11.15わかりやすいほうがいいって本当なのだろうか?

「わかりやすいほうがいい」
「若い人はわかりやすい仏教の教えを求めている」

こういう言説を聞くことがあるが、これは本当なのだろうか?
若い人をなめているのではないだろうか?

「わかりやすさ」に辟易しているということもあるのではないだろうか?

例えば生徒たちの中には「僕(私)コミュ障なんです」という者がいる。
しかし、「コミュ障」という言葉で自分をわかりやすくまとめてはいけない。
「あなたはコミュ障なんて言う言葉でくくれないもっと複雑な存在なんだ」という言葉によって救われる子供もいるのではないかと考える。

私たちは、本当はもっと複雑に、他者や自分を理解したいという心もあるのではないだろうか。だからこそ、他人と長い時間、共に居ることが必要なわけで、すぐに相手のことが分かるのだったら、一緒に時間を過ごす必要すらないのである。分からないから、長い間時間を共にするということもあるのだろう。もう私たちはインスタントな分かり方、分かりやすさに辟易しているのではないか?
あなたはそんなシンプルで分かりやすくない、もっと複雑なんだよって。
ところが僕たちは、自分も他人も分かりやすく説明することに慣れすぎてしまっている。
大切なのは自分をもっと複雑にみていくことであろう。

仏教の教えだってそんなにわかりやすいものではない

しかしだからこそ取り組みがいがあるということがある。

「わかりやすいが良い」 を一旦疑ってみたい。

人間の複雑さを知るということは、人間の厳粛さを知るということでもある。
確かに、己の知恵や、思考は浅はかなものかもしれない。
しかしその存在は、深いものである。親鸞は深という一字で、罪の人間をおさえている。

「不簡破戒罪根深」というは、「破戒」は、かみにあらわすところの、よろずの道俗の戒品をうけて、やぶりすてたるもの、これらをきらわずとなり。「罪根深」というは、十悪五逆の悪人、謗法闡提の罪人、おおよそ善根すくなきもの、悪業おおきもの、善心あさきもの、悪心ふかきもの、かようのあさましき、さまざまのつみふかきひとを、「深」という。ふかしということばなり。すべて、よきひと、あしきひと、とうときひと、いやしきひとを、無碍光仏の御ちかいには、きらわず、えらばれず、これをみちびきたまうをさきとし、むねとするなり。真実信心をうれば実報土にうまるとおしえたまえるを、浄土真宗の正意とすとしるべしとなり。

親鸞『唯信鈔文意』(『聖典』p.552)

最初の「甚分明」については、親鸞聖人が『唯信鈔文意』で、
「甚分明」というは、「甚」はは、はなはだという、すぐれたりというこころなり。「分」は、わかつという、よろずの衆生ごとにわかつこころなり。「明」は、あきらかなりという、十方一切衆生を、ことごとくたすけみちびきたまうこと、あきらかに、わかちすぐれたまえりとなり。(『聖典』p.547-548)
このように釈しておられます。けれども「分明」という言葉自体は、「はなはだ明らかである」というだけの意味ですね。
 そのように、それほど深い意味はないように思われる『五会法事讃』の偈文なのですが、親鸞聖人は『唯信鈔文意』でこまかに解説をされます。しかも、その言葉を通して本願の意をのべていかれるのですが、ある意味では非常に強引な読み換えがされているのです。こういう点が、私にはもうひとつわからないわけです。なぜそんなに強引な読み換えまでして、この偈文の言葉を釈さなければならないのか。またそういう形で『唯信鈔文意』をなぜ親鸞聖人は書かれたのか。正直に言いまして、私は受け止めかねています。
 ともかく、今読みましたように、「分明」という言葉にしても、「分」というのを「わかつ」と言われる。これはまあ、その文字の意味です。ところが、次の「よろずの衆生ごとにわかつこころなり」という釈ですが、これは『五会法事讃』からは出てこない意味です。「よろずの衆生ごとにわかつ」と、これはいったい何なのかですね。
 これについて私は、曇鸞大師が『讃阿弥陀仏偈』で言われる、「無等等」という言葉が思われるのです。この無等等という言葉は、講録では、「無等」とは仏の徳は五乗に等しくない。「等」は諸仏にあっては平等だ。そういう仏の徳を表されたのが、無等等という言葉だと説明されています。しかし私には、それでは落ち着かないことがあるのです。
 この「無等等」という言葉に私が感じますのは、無等の事実に本当に明らかになるところに開かれてくる平等性ということです。平等ということは無等等。平等ということは、一つひとつの存在の無等性、つまりかけがえのなさです。それは何かの本質論に立って、ひとつの立場から存在を価値づけるとか意味づける、そういうことを許さないのです。かけがえのなさというのは、一つひとつの存在に、かけがえのなさを見るということが平等ですね。平等ということは、何か皆を十把一からげに、同じようにしてしまうということではない。個々の存在の絶対性に頭を下げるというところに、平等心ということがあるのでしょう。そういう平等ということをあらわす言葉として、私には無等等という言葉が非常に響くのです。
 親鸞聖人が分明というところで、
 「分」は、わかつというよろずの衆生ごとにわかつこころなり。(『聖典』p.547)
と、「よろずの衆生ごとにわかつこころなり」と言われるその意味は、衆生の平等性というものに明らかになる、けっして十把一からげにしないということだと思うのです。すべての衆生を十把一からげに見る眼に対して、「よろずの衆生ごとにわかつこころなり」というのは、それぞれをかけがえのないものとして見るということでしょう。
 また、「明」についても、
 「明」は、あきらかなりという、十方一切衆生を、ことごとくたすけみちびきたまうこと、あきらかに、わかちすぐれたまえりとなり。(『聖典』p.547-548)
という釈を、親鸞聖人はほどこしておられる。そこにある、「あきらかに、わかちすぐれたまえりとなり」という言葉も、やはりそれぞれをかけがえのないものと見るという平等性を表しているのだと思います。

宮城顗『"このことひとつ"という歩み 唯信鈔に聞く』pp.149-151

(終)


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