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教化と管理の道具ではない言葉

アルテリ17号の藤原さんの文章が心に残ったのでメモしておきたい。

病室での石牟礼道子さんとの対談はあっという間に終わった。白い買い物袋に入ったみかんがテレビの近くから発見され、それを終わってから食べていると、自分の緊張感はもう消えていることに気づいた。石牟礼さんから受け取ったことは何だっただろう、と今思い返してみる。
ところが、あまり出てこない。あえていえば、みかんだ。石牟礼さんとの対談で、なぜか私は何も学ぼうとしなかった。言葉遣いに感嘆したり、思想に触れて感激したりすることはなかった。そう、学ぶとか、影響を受け取るとか、そんな水準の話ではない。それはすでに本で十分に味わっていた。ただ単に、一緒に話して愉快だった。魂からもてなしを受けている気がした。ようこそいらっしゃいました。ちゃめっけたっぷりで、情景が目の前に浮かぶような豊かな言葉で私を笑わせた。若い人間に表現とは何か、抵抗とは何かを教えるような気配は微塵も感じられなかった。私はそれをどこかで求めていたにもかかわらず、今に至るまで覚えておくべき名文句も最後まで彼女の口から出てくることはなかった。石牟礼道子さんはただ、時間を変換した。心置きなくおしゃべりできるように、朗らかな空気を編んだ。
言葉が教化と管理の道具として用いられすぎる時代に、こんなにも純粋に言葉と時間を愉しむ人に出会えた。フルコースでも、オーケストラでもなく、ささやかな言葉による歓待を受けた私は、結局お礼を返す機会を失った。自分よりも後に生まれた人たちに向けて、そんな歓待をしてみたい、と私は思った。

藤原辰史「石牟礼道子さんから受け取ったもの」『アルテリ』17号、14-15頁から抜粋

素晴らしい文章だと思った。石牟礼道子さんと過ごした時間は藤原さんにとって、学びとか教訓をえるというものとは全く違う質の時間だったという。
自分自身、教育者となって、若い人と話すことは何か教訓めいたことを言わなければとか、だれかと話すときも何かを学ばなきゃと思って対面することが多くなっていた。しかし、藤原さんがいうように、それは教化と管理の言葉である。そこでは言葉をただかわすという愉悦が失われているのであろう。言葉が道具化してしまっている。そういう言葉しかわからないし知らないということもあるのかもしれない。しかし石牟礼さんと話すときはそうでなかったという。そして藤原さん自身も、そのように若い人を歓待したいという。自分の言葉の使い方を考えさせられた。


2024.3.15 読んだ本
①祖父江文弘『われひとり救われるを由とせず』

②アルテリ17号
③本多弘之先生『微笑の素懐』

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