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忘れてはいけない違和感①

以前、下記の記事に書いたことだが、

今当たり前になっていることも、数年前までは当たり前ではなかったという事が色々ある。例えば、上の記事で書いたのは、ウォークマンが登場した当時、電車内でウォークマンを聞いている人がいると異様な感じがしたとある方がエッセイで書いていたことを紹介した。
少し話はずれるが、Bluetoothイヤホンが出始めたとき、やはり、街を歩きながら話をしている人がいると異様に見えた。それは道ですれ違う人の存在を全く無視して、電話の向こうの人とのみつながっている感じがしたからだ。道で歩いているときに新しい出会いとか、思いもかけない出会いがあるかもしれないのに、そのことを全く遮断しているように見えた。それが異様なことに思えた。しかし、Bluetoothイヤホンが登場して15年ほど経った現在では、全くそのことを異様だと思わなくなっている自分がいる。こうした感覚は、すぐに忘れていくのだが、案外そういう違和感の中に覚えておいた方が良いことがあるように思う。
それで、こうした忘れてはいけない転換について思い出したものを書いていきたいと思う。

一つ思い出したことがある。自分が、10年ほど前に、初めて中学校の理科教員になった時のことだ。
その中学校は進学校で、ほとんどの生徒が小学校の時、中学受験のための塾に通っていた。
彼女・彼らと話しているときに、こんなことを知った。彼女・彼らが通っていた塾では、毎週あるいは毎月テストがあって、順位ごとにクラス替えがあるという。成績順のクラスになっていて、それが毎月(毎週)のようにランクが入れ替わるのである。
さて、この話、今聞いたら「そんなの普通じゃない?」って思うかもしれないけど、その当時はこれを聞いて自分は心底驚いた。そんなことしたら駄目だろうと思ったのだ。そんなことしたら、人間をランクで測ることが当たり前になってしまう…。というか、そんなことはやるとしたら相当慎重にすべきことで、毎週とか毎月そんなことしたら、人間をその瞬間のできる出来ないというランクで測るようになり、すべてにその価値観を当てはめていくようになってしまうじゃないか…と絶句したのである。自分が違和感を持ったのは、おそらく次の点だ。
①その生徒の出来・不出来がバレバレになってしまう。
②その生徒の成長を長い時間をかけて待つのではなく、その瞬間の出来でランク分けしてしまうこと。そのまなざしを子どもが内面化してしまうこと。
③最も下のクラスにいる子供たちのやるせなさや恥の感情を起爆剤にして勉強させようといういやらしさと教育の本質からの乖離。

こうしたことがすごく恐ろしく思った。そんな価値観に小学生から触れさせたら駄目だと思った。少なくとも小学生の間はそんな価値観で人間を図らないでくれと思ったのである。
その時自分は、瞬発的に「えっ!そんなのメチャクチャやん!あかんやろそんなの!」と言ってしまった。そしたら生徒は「先生、そんなのあたりまえやで」「みんなそういうこと経験してきてるねんで」と言われてあっけにとられた。これは大変なことだ…と憤った。
しかし、あれから、10年以上たち、そんなことはもう当たり前になっているように思う。小学生の塾でクラス替えのテストがっしょっちゅうあり、成績が眼に見える形になり、恥の感覚を餌に勉強させるということは当たり前になっているのではないだろうか。

しかしあの時僕が感じた違和感は、やはり大切なものだと思う。本来教育と名の付く場所で、そういうことを少なくとも”気軽に”やってはいけないことだと思う。何かやむを得ない事情があってしなければならないとしても、やるならよほど慎重に、また時間をかけて、やらなければならないはずだ。そんなしょっちゅうやるものでは決してない。そもそも、あの制度はある都内の有名な中学受験の塾から始まった仕組みのはずだが、今や全国の塾に広がっているように思う。

あの感覚を忘れたくない。

(終)

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