日記 2023.11.9
今日も読書会があり色々考えさせられた。上の文は今日、先生に教えて頂いた緒方正人さんの言葉である。
よく考えたら自分は、高校・大学時代に手塚治虫のブッダやお坊さんに出会って、仏教があったから呼吸が出来ていたということがあるのだなと思った。
仏教が無かったら、他の世界があると分からずに、勝ち負けと損得の中で自分を卑下し、人をうらやみ、他人を馬鹿にしその中でもっと苦しんでいただろう。しかし、自分は仏教という世俗とは全く違う回路を持つ、人間の厳粛さや尊さを見つめる教えと出会って呼吸できたのだと思う。それはもしかしたら、他の人にとっては、文学や芸術がそうした役割を果たしているのかもしれない。しかし私の場合は仏教だった。仏教が世俗の価値観、勝ち負け損得以外の世界に風穴を開けてくれた。
今高校で仏教を教えているが、高校生にとって仏教の授業というのはすごく可能性があると思う。世間には違う価値観もあると分かるから。本当に真実を求める教え、命の尊厳を無条件で認めていく価値観があると知るだけで世界は変わる。たとえ信仰なんてもたなくても、違う価値観があると知ることで呼吸ができるのだ。例えて見れば、例え牢獄の中にいたとしても、そこに窓があり、窓の外に広い世界があると知るだけで、まったく生きる意味が変わってくる。牢獄の中で牢獄の世界が全てだと思っていたら苦しすぎる。だけど、外に無限なる空があると知ることで楽になることがあるのだ。
しかし一方で、生徒にとっては仏教は権威として自分を縛り付ける象徴そのものにもなりかねない。訳の分からない教えを無理矢理聞かされて、儀式に参加させられて、合掌させられる。それは直ちに、生徒からすれば自分の自由を奪う権威であり、国家のミニチュアのような存在になる。宗教的権威が自己を縛り付けるように思えてしまうだろう。生徒の中には非常に宗教に嫌悪感を覚える人もいる。それは恐らく、宗教のこうした面しか観れてこなかったからだと思う。これは伝える側の責任でもある。その場合は、伝える人本人が権威に寄りかかり、仏教の本質が良く分からないままに教えているということなのであろう。これは全く教える者の技量や、信仰によって生徒の受け取りが変わってくる。
こうした二項対立の中にあるのが、宗教系の中学・高校・大学の「仏教」という科目の立ち位置なのであろう。
しかし、教えるべきは前者である。つまり、世俗の価値観に風穴を開けるような、日常に風を通すような授業であり、宗教行事である。
そのような授業や、生徒とのやり取りがどうしたら可能になるのか?
これは一つの大切な課題である。
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?