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人間における回復-アングリマーラの救済の物語を通して-

瓜生津隆真先生の本を読んでいて、教えられるところがあったのでメモしておきたい。仏典に登場する「アングリマーラの物語」の話である。この話を通して仏教における救済の特徴が考えさせられる。

アングリマーラーの出家
アングリマーラーという恐ろしい盗賊といいますか、殺人鬼がいたのですが、そのアングリマーラーが、お釈迦さまのお導きを受けてありがたい仏弟子となってさとりを開いていくのです。しかしそのさとりを開く過程は、アングリマーラーにとっては、とても耐え難いものであった。なぜかというと、青年の頃、お釈迦さまの弟子になる以前は、殺人鬼であったからです。人々は、アングリマーラーが来るというと恐れおののいたのです。そういう若き青年を、お釈迦さまが教化をなされた。
 「指鬘外道」というのは、アングリマーラーは人を千人殺すという誓願を立てるのです。それはアングリマーラーの師匠が、邪な心を懐いていたからです。若いアングリマーラーに嫉妬し、夫人と通じているのではないかと疑いまして、弟子を死に追いやるようなことをしたのです。それが、人を千人殺せという師の言葉だったのです。アングリマーラは、若くして純粋な心の持ち主でありましたので、師の教えは忠実に守らなければいけないということで、一人殺し、二人殺し、三人殺しと、とうとう殺人鬼になってしまう。そして九九九人まで殺してしまうのです。現在でもインドへいきますと歓迎の意味で首に花輪を掛けてくれますけれども、アングリマーラは殺した印に、殺された人の指を切りまして、糸を通して、指を輪にして首に掛けて持ち歩いていたのです。「指鬘」とは、そういうことです。恐ろしい殺人鬼です。そしてその千人目が、実はお釈迦様との出遇いだったのです。
 お釈迦さまはアングリマーラに、ことの道理を解き明かされます。「汝は恐ろしい殺人鬼になって、汝の行いは、どれほど世のなかの人々を苦しめているか。悩ましているか。しかしこれは、汝の心が悪いのではない、邪な教えに惑わされていることがいけない」と、諄々とお釈迦さまがお説きになる。その一言一言を聞いて、アングリマーラは、自らが恐ろしい殺人鬼であったことをさとって、さとりの道を一心に歩んだと言われています。
【「たえよ」にこめられたこころ】
アングリマーラは出家をするのですけれども、出家者を殺すということは、五逆罪の一つになる。今は頭を剃ってお釈迦様の弟子となって黄色い衣を着て托鉢をして生活しているけれども、以前は殺人鬼であった。自分の夫が殺され、親を殺され、子供を殺された。その恨みは消えません。ですからアングリマーラが来たということが知れわたりますと、みな家々から石や棒を持ち出してきて、アングリマーラにぶつけたり傷つけたりしたわけです。ですから托鉢に出るたびに血まみれになって命からがら帰ってくるのです。
 それをご覧になったお釈迦さまが、どのようにおっしゃったかというと、「アングリマーラよ、たえよ。汝の行ってきたことの報いを、汝は今受けている。それは汝が果たさなければならない。他人に代わってもらうわけにはいかない。どんなに辛くとも、苦しくとも、それにたえていくのが汝の責任である」と、「たえよ」ということをおっしゃったのです。
 「たえる」というとき、仏教では「忍」という字を書くのです。この「たえよ」の一言は、お釈迦さまがおっしゃるからこそ、深い意味があるのだと思いますけれども、「お前がしてきた所行がそのような苦しみを招いているのだから、他人に文句を言う筋合いのものではない。お前自身が受けなければいけないのだ」というような、冷たい言い方ではなくて、「たえよ」という言葉のなかに、深いお釈迦さまのおこころがこめられています。これが大事なのです
「忍」という字は、言偏を付けますと認識の「認」となります。「知る」という意味です。「さとる」という意味にとても近いのです。ですから、「たえる」ということは、道理がわからないとたえられないのです。「不合理だ」「非道理だ」と考えていたら、絶対にたえるというようなことは不可能です。たえるということは、ことの次第をよくよく見きわめて、受けなければならないものは受けてゆく。
 大乗仏教のお師匠様であります龍樹菩薩という方が、二世紀から三世紀にかけて、インドにおいて活躍をしてくださいました。その龍樹菩薩が、この「忍」ということをおっしゃっています。すなわち菩薩が、命をかけて仏道修行をなさる。一段一段、境地が開かれていきます。その過程を、十段階に分けて示しておいでになるのが十地経典、『十地経』という経典です。これは大乗仏教を代表する経典の一つなのですけれども、十段階あるうち、修行の結果、さとりの境地の第六段階(現前地)に入られる。第八段階(不動地)に入りますと、般若の空ということをさとることのできる智慧を得られると書いてあります。
「無生法忍」という言い方もありますけれども、そのことは置いておきまして、私たちをしてどんなにたえがたいことがあってもたえしめる、たえしめてくださる尊いはたらきがある。それが智慧のはたらきです。ですから本当に仏道修行をなさる方は、どんなに非合理に見えましても、よくものごとの道理を見通して、腹を立てることはなさらないのです。
 お釈迦さまがアングリマーラに言われます。「アングリマーラよ、苦しいであろう、辛いであろう。どんなに辛くとも、そこから逃げ出したいと思っても、逃げ出すわけにはいかない。たえてゆきなさい」と、こう教えられた。アングリマーラは、そのお釈迦さまのお言葉に支えられ、仏さまの道を歩むことを通して、やがて自らの姿に気づくのです。「なんと私は、恐ろしい人間であったことよ」。自らの恐ろしさを知ればしめたものです。なかなかそれがわからないから、人を恨んだり、憎んだり、嫉んだりいたしますけれども、自己の罪深い行為への認識が甘いのですね。お釈迦さまはそう教えられたのです。
 このようにアングリマーラは、元は殺人鬼だったのですが、お釈迦さまに導かれて、お弟子になって、お釈迦さまより修行の道を諄々と説かれて、遂にはさとりの境地に到達するわけです。仏弟子として、何人にも劣らない、すばらしいお弟子にそだっていかれるわけです。こういう方は、舎衛城のご出身の方が多いのです。
(瓜生津隆真『浄土三部経のこころ』98-104頁)

瓜生津隆真『浄土三部経のこころ』98-104頁

アングリマーラは、殺人鬼になってしまったが、ここに人間の業の問題を考えさせられる。もしアングリマーラの先生がもっと嫉妬深い人でなかったら、アングリマーラがこんなにも純粋でなければ。おそらく彼は殺人鬼にはならなかった。しかしいろいろな縁が重なって、アングリマーラは人を殺した。これは他人ごとではない。まさに自分だって、縁さえあればそういうことをしでかしかねないではないか。単にそういう業縁がないからである。そこに深い人間の悲しみの通奏低音を聞くのである。アングリマーラの悲しみが自分に通じているのである。また、アングリマーラの千人目に仏陀に偶然会うということも非常に考えさせられる。仏陀に会う前に非常に多くの苦しみを経験している。そして出会うのである。

そして、仏陀はアングリマーラに向き合うこの部分にも何か大事なものがある。

 お釈迦さまはアングリマーラに、ことの道理を解き明かされます。「汝は恐ろしい殺人鬼になって、汝の行いは、どれほど世のなかの人々を苦しめているか。悩ましているか。しかしこれは、汝の心が悪いのではない、邪な教えに惑わされていることがいけない」と、諄々とお釈迦さまがお説きになる。その一言一言を聞いて、アングリマーラは、自らが恐ろしい殺人鬼であったことをさとって、さとりの道を一心に歩んだ

前掲書 100頁

瓜生津先生がさらっと言っているここに、人が人に向き合うとはどういうことかがあらわされている。
まず仏陀は、アングリマーラにお前の行動は恐ろしい、どれほどの人を苦しめ、悩ませているのかと諄々と叱る。しかし、そのうえで、仏陀はアングリマーラに汝の心が悪いのではない。よこしまな教え・考え方に惑わされているのが悪いと言う。まず仏陀はアングリマーラに自己の罪を自覚させる。しかし、彼の人格を全否定することはしない。己の罪は恐ろしい、しかしその根にあるのは、汝の深いとらわれの心、間違った考えだ。これが先ほどの業縁の問題と重なってくる。アングリマーラだって、いろいろな縁に出会っておかしくなってしまったのだ。ここから回復の糸口があることを仏陀は見ている。そして決して見捨てないのである。
だからこそ、仏陀に受け止められて、アングリマーラは自己の罪を自覚できる。これがもし、「お前は大バカ者でもう救いようがない、死ね!人生やり直せ!」みたいな調子で叱っていたら、アングリマーラは反省するどころか開き直っていたかもしれない。さらに孤独になっていたのではないか。

そして、アングリマーラは仏弟子になってからも、石を投げつけられたり、ボコボコにされる。
それに対して仏陀は、

アングリマーラよ、たえよ。汝の行ってきたことの報いを、汝は今受けている。それは汝が果たさなければならない。他人に代わってもらうわけにはいかない。どんなに辛くとも、苦しくとも、それにたえていくのが汝の責任である」と、「たえよ」ということをおっしゃったのです。

前掲書 101頁

ただ、たえよ。というのである。これは己の罪は己で受けるしかない、ということを言っているのではないか。罪を受けることができる。身をもって自己の罪を自己で受けるそこに大切なものがある。そう言っているように思う。それを瓜生津先生は、耐え忍べという忍としているところに、大事な意味を見ている。つまり自業自得だろと突き放すのではない。それをたえよという。この言葉は紙一重である。しかし、己の罪を己で受ける中に人間の尊厳が回復する大事な場があるということを言っているのではないか。
ごめんなさい、といえること、その一言の中に大切なことがある。

ごめんなさい、と言えたとき、私たちは回復するのである。

そう考えると、今問題になっているジャニー喜多川氏の問題も非常ともつながってくる部分がある。ジャニー氏から被害を受けた人が今も何百、千人を超える単位で心の問題に苦しんでいるという。そんななか、自分だけが死んで、罪を受けずに、死んでいく。そんなことが許されるのだろうか。ジャニー氏はやっぱり罪をうけてから死んでいく必要があったと思う。たとえつらいことだとしても、それが彼が本当にしなければならないことだったのではないのか。それをせずに、先に何事もなかったかのように逃げ切る。そういうことは本当はないのではないか。おそらく地獄という来世として表現される世界が措定されたのも、そういう問題があるように思う。


そして、そうした仏陀の導きを得て、アングリマーラは修行を続ける。

 お釈迦さまがアングリマーラに言われます。「アングリマーラよ、苦しいであろう、辛いであろう。どんなに辛くとも、そこから逃げ出したいと思っても、逃げ出すわけにはいかない。たえてゆきなさい」と、こう教えられた。アングリマーラは、そのお釈迦さまのお言葉に支えられ、仏さまの道を歩むことを通して、やがて自らの姿に気づくのです。「なんと私は、恐ろしい人間であったことよ」。自らの恐ろしさを知ればしめたものです。なかなかそれがわからないから、人を恨んだり、憎んだり、嫉んだりいたしますけれども、自己の罪深い行為への認識が甘いのですね。お釈迦さまはそう教えられたのです。

前掲書103-104頁

では結果、アングリマーラはどうなったか。
アングリマーラが悟ったことは、「なんと私は、恐ろしい人間であったことよ」ということだった。俺は素晴らしい人間だと悟ったのではない、なんと自分は恐ろしい人間なんだと、頭を下げたのである。
実はこの自覚のところ、頭を下げたところで初めて他者のことが見えてくるのではないだろうか。この自覚のところで初めて人と通じ合う世界が開かれる。悲しみのところでのみ通じ合えるとでもいうのか。

これは、浄土真宗の二種深信とも通じるのである。

以前、臨床心理士の信田さよ子先生が、DVをする父親にとっても最大の救いは自分のやっていたことの恐ろしさを自覚させることなのだと言っていた。だからもしそのことをちゃんと父親に直面させる娘や息子がいたらこれ以上の親孝行はないのだという話をしていた。ほとんどのDV加害者は自分がやっていることが悪いということがわからないそうだ。やはりそれをわからせることが大変で、自己の罪に直面できるところから治療がはじまるといっていた。だから、その罪に直面させることがその人にとっての本当の慈悲になると。

自己の罪深い行為への認識が甘いのですね

瓜生津先生はこういう。私たちはうまいことやること、自分の罪を見ないことが幸せだと思っている節がある。しかし、仏教はまるっきり違う。180度違うのである。自分の罪の深さと向き合うこと、自分の本当の姿を知ることそこに非常に深い人間の回復があるというのである。

ふつうこんなことは誰もしたくない、見たくないものは見ないままでいたい。だから仏教を聞くという思考は普段の生活の中からは生まれてこない。だから無理やりでも、身体を運んで聴聞することが大切なのだと思う。


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