瓜生津隆真先生の本を読んでいて、教えられるところがあったのでメモしておきたい。仏典に登場する「アングリマーラの物語」の話である。この話を通して仏教における救済の特徴が考えさせられる。
アングリマーラは、殺人鬼になってしまったが、ここに人間の業の問題を考えさせられる。もしアングリマーラの先生がもっと嫉妬深い人でなかったら、アングリマーラがこんなにも純粋でなければ。おそらく彼は殺人鬼にはならなかった。しかしいろいろな縁が重なって、アングリマーラは人を殺した。これは他人ごとではない。まさに自分だって、縁さえあればそういうことをしでかしかねないではないか。単にそういう業縁がないからである。そこに深い人間の悲しみの通奏低音を聞くのである。アングリマーラの悲しみが自分に通じているのである。また、アングリマーラの千人目に仏陀に偶然会うということも非常に考えさせられる。仏陀に会う前に非常に多くの苦しみを経験している。そして出会うのである。
そして、仏陀はアングリマーラに向き合うこの部分にも何か大事なものがある。
瓜生津先生がさらっと言っているここに、人が人に向き合うとはどういうことかがあらわされている。
まず仏陀は、アングリマーラにお前の行動は恐ろしい、どれほどの人を苦しめ、悩ませているのかと諄々と叱る。しかし、そのうえで、仏陀はアングリマーラに汝の心が悪いのではない。よこしまな教え・考え方に惑わされているのが悪いと言う。まず仏陀はアングリマーラに自己の罪を自覚させる。しかし、彼の人格を全否定することはしない。己の罪は恐ろしい、しかしその根にあるのは、汝の深いとらわれの心、間違った考えだ。これが先ほどの業縁の問題と重なってくる。アングリマーラだって、いろいろな縁に出会っておかしくなってしまったのだ。ここから回復の糸口があることを仏陀は見ている。そして決して見捨てないのである。
だからこそ、仏陀に受け止められて、アングリマーラは自己の罪を自覚できる。これがもし、「お前は大バカ者でもう救いようがない、死ね!人生やり直せ!」みたいな調子で叱っていたら、アングリマーラは反省するどころか開き直っていたかもしれない。さらに孤独になっていたのではないか。
そして、アングリマーラは仏弟子になってからも、石を投げつけられたり、ボコボコにされる。
それに対して仏陀は、
ただ、たえよ。というのである。これは己の罪は己で受けるしかない、ということを言っているのではないか。罪を受けることができる。身をもって自己の罪を自己で受けるそこに大切なものがある。そう言っているように思う。それを瓜生津先生は、耐え忍べという忍としているところに、大事な意味を見ている。つまり自業自得だろと突き放すのではない。それをたえよという。この言葉は紙一重である。しかし、己の罪を己で受ける中に人間の尊厳が回復する大事な場があるということを言っているのではないか。
ごめんなさい、といえること、その一言の中に大切なことがある。
ごめんなさい、と言えたとき、私たちは回復するのである。
そう考えると、今問題になっているジャニー喜多川氏の問題も非常ともつながってくる部分がある。ジャニー氏から被害を受けた人が今も何百、千人を超える単位で心の問題に苦しんでいるという。そんななか、自分だけが死んで、罪を受けずに、死んでいく。そんなことが許されるのだろうか。ジャニー氏はやっぱり罪をうけてから死んでいく必要があったと思う。たとえつらいことだとしても、それが彼が本当にしなければならないことだったのではないのか。それをせずに、先に何事もなかったかのように逃げ切る。そういうことは本当はないのではないか。おそらく地獄という来世として表現される世界が措定されたのも、そういう問題があるように思う。
そして、そうした仏陀の導きを得て、アングリマーラは修行を続ける。
では結果、アングリマーラはどうなったか。
アングリマーラが悟ったことは、「なんと私は、恐ろしい人間であったことよ」ということだった。俺は素晴らしい人間だと悟ったのではない、なんと自分は恐ろしい人間なんだと、頭を下げたのである。
実はこの自覚のところ、頭を下げたところで初めて他者のことが見えてくるのではないだろうか。この自覚のところで初めて人と通じ合う世界が開かれる。悲しみのところでのみ通じ合えるとでもいうのか。
これは、浄土真宗の二種深信とも通じるのである。
以前、臨床心理士の信田さよ子先生が、DVをする父親にとっても最大の救いは自分のやっていたことの恐ろしさを自覚させることなのだと言っていた。だからもしそのことをちゃんと父親に直面させる娘や息子がいたらこれ以上の親孝行はないのだという話をしていた。ほとんどのDV加害者は自分がやっていることが悪いということがわからないそうだ。やはりそれをわからせることが大変で、自己の罪に直面できるところから治療がはじまるといっていた。だから、その罪に直面させることがその人にとっての本当の慈悲になると。
瓜生津先生はこういう。私たちはうまいことやること、自分の罪を見ないことが幸せだと思っている節がある。しかし、仏教はまるっきり違う。180度違うのである。自分の罪の深さと向き合うこと、自分の本当の姿を知ることそこに非常に深い人間の回復があるというのである。
ふつうこんなことは誰もしたくない、見たくないものは見ないままでいたい。だから仏教を聞くという思考は普段の生活の中からは生まれてこない。だから無理やりでも、身体を運んで聴聞することが大切なのだと思う。
終