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日記2023.10.16

12月に2回法話をする機会があり、そろそろ考えなくてはいけない。
何を話すべきか非常に迷っている。
法話のために新たに勉強することは大前提として、自分の中にないものは話すことはできない。
昨日尹さんがおっしゃっていたが「自分の寸法に戻らないといけない」。
「自分の寸法の話」しかできないし、「自分の寸法」から話をすることが大切なのだ。言い方を変えれば、自分の言葉で話したい。誰かの言葉ではなく。
そうすると、やはり自分がやってきた事は高校生・中学生に仏教を教えることだったのだから、そのことに関する話をする事しかできないのかなと思う。
もしかしたら一人で悶々と考えてきた事を話してもいいのかもしれない。

最近色々な場面で考えるのは、どうして小学校2年生頃までは宗教の授業も喜んで聞いていた子供たちが、中学生とか高校生になると聞かなくなるのかという問題である。このことを考えてみるのも面白い。そこから、宗教を聞くということの意義を再考してみるのも良いかもしれない(宗教を教えることの罪深さや問題も含めて)。

宗教の授業自体はあまり好きではない生徒でも、この時間は好きと書いてくれるのが、宗教の期末テストの最後の論述の部分なのである。宗教に関する文章を読んで自分の感じたことや考えたことを好きに書いて良いという節門である。この部分に関しては何を書いても満点をもらえる。普段宗教の授業で適当にしている生徒でも、ここはしっかり書いてくれる場合が多い。そして、アンケートなどでも、あの時間が好きだったと書いてくれる人がいる。

このことは実は大きな意味をもつと思う。つまり子どもたちが求めているのは、大人から押し付けられる言葉ではなくて、「自分の中から出てくる言葉」なのだろうと思う。自分が宗教という得体の知れないものに触れて自分がどうなるのか、どう感じるのかということにはとても興味があるのである。結局そこに自分が介在していることが大事なのだ。それが子どもの好奇心であり、これが健全なあり方なのだと思う。
ところが、やはり宗教の授業では大人が正解を言うばかりで、自分が宗教に触れて何を感じ、何を表現するかという時間が欠けている。子どもたちは裏切られ続けてきたのだと思う。実際自分も、正解を言う授業ばかりしている。だから子供たちは期待が裏切られたと思ってもう聞かなくなる。
自分を通すということがない宗教の授業だから子どもたちは聞かなくなる。

だからここから逆の矢印を導けば、自分を通すような宗教との出会いができる授業は求められているのであり、子どもたちがしたいのは自分の中からの表現なのだと思う。大人が言う答えが欲しいのではない。

後、今日思ったのは、個性とか多様性と言っているのに、宗教はなぜ同じ答えとか同じ救済を押し付けられるのだという不満があるのではないか?少なくとも自分はそうだった。これは新しい領解文の問題にもつながると思う。宗教に触れてどんな反応が自分の中から出てくるか分からない。それから自分にとっての救済は他の人の救済とは違うかもしれない。今日の千葉雅也先生の話の中では、千葉さんは救済すら求めていないと言っていた。

オーダーメードの救いではなく、既製品の均一化した救済を提示されているように高校生は感じると思う。「そんなもので私の人生を救えると思っているのか、なめるな」と思うだろう。学んでいくと、これは違うと分かるのだが(本当に普遍的な問題は、個人の問題とも必ずつながってくる)、最初の反発としてはあり得る。この辺りの、「固有の救い」と「普遍的な救い」の話も考えてみると面白いかもしれない。

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