Podcast「となりの雑談」イベント感想
昨日、書店B&Bの配信イベント「桜林直子×ジェーン・スー 「TBS Podcast『となりの雑談』 トークイベント」に参加した。
TBSポッドキャストの番組「となりの雑談」は、桜林さんとスーさんの話が面白くて大好きでいつも聞いている。自分を観察するということにつながる内容なのである。今回、初の同番組のイベント、しかもワーク付きということで気になって参加した。本当に面白かった。
気になった言葉をメモしていたので、感想は後ほどまとめるとして、とりあえず、メモの内容や、聞いて思ったことだけ残しておきたい。
お二人のトークを聞いていて一番考えたのは次のようなことだった。
「何で自分で考えて、感じてやるじゃなくなっちゃたんだろうか?」
人に合わせる、正解を知るばかりになってしまった。
正解ということから離れられない。思考とか人付き合いとか、すべての場において正解を求めるということばかりになってしまっている。正解から離れられない。どうしてこういう自分になってしまったのだろうか?ということである。原因を考える。
以下、桜林さんとスーさんの言葉
まずジェーン・スーさんの言っていたことは、遠回しに相手のせいにしないということ。自分発信で、語ることの大切さ。自分が嫌だからやめてと言うのはいい。しかし、あなたがこういうことして私を不快にさせましたよ。というような言い方はやめたほうがいいということ。そういうことをすると周りから人がいなくなるということ。これは結局のところ、正直に話すということにつながるのであろう。そのように、遠回りな言い方をして、人を攻撃することをスーさんは「パッシブ・アグレッシブ」とおっしゃっていた。これはやめていきたいと思った。
また、桜林さんは、上のような話を受けて、「不細工でもいいから自分の言葉で書いた方がいい自分の言葉かどうか整合性のある頭の良い書き方ができているかなんてどうでもいい人に読ませなくてもいいとにかく出すこと」とおっしゃっていた。これは、自分の問題意識、「何で自分で考えて、感じてやるじゃなくなっちゃたんだろうか?」に対する、一つの答えになる。おそらく人の目を恐れて、あるいは怒られることを恐れて、正解ばかり探すようになってしまった。それは今や仕方がないことである。しかしできることは、なぜそのようになったのか見つめることと、今どのように語っているかを観察し、知ること。そして直すべきところは直すことである。そのトレーニングとして、桜林さんの言うように、不細工でも自分の言葉で語り、書くということが非常に重要なのだと教えられた。その時重要なのは、誰にも見せる必要はないということ。自分向けにだけ書くということだろうと思った。続いて、桜林さんは以下のようにもおっしゃっていた。
これも重要だなと思った。SNS以降、人の揚げ足取りというか、まず人の言葉をきっかけに思考し、それで何かを言ったつもりになるという会話法、思考法が以前よりもさらに多くなってしまったのではないか?そういうことで、バズったり、注目されたりする。そうすると、そういう人の言葉きっかけで話す人が多くなり、その作法が広がってしまう。その結果、ますますそういうことに価値が置かれ、自分でそもそも話すことから考える、自分の話したいことを見つめるということ自体の価値が貶められているのではないだろうか。でも自分が何をしたいのかといえば、別に、誰かが話していることにうまく応答することではなかったはずだ。そのようなことは、ワイドショーのコメンテーターがすればいいことである。しかし自分がしたいことは、そもそも語るべきこと、考えるべきこと、深く考えるべきことを知ることであろう。それ以外ではなかったはずだ。周りのノリにうまく合わせることができる、などということが自分のやりたいことではなかったはずである。ところがいつの間にか、語るべきことそのものを丁寧に見つめることをしなくなった。それはSNSで短い文章を読むことに慣れすぎてしまったからではないか。そう考えると、SNSの人間の思考に与える影響は大きい。まず自分は、誰かの言葉きっかけで考えることを少しずつ減らしていきたい。
スーさんが言っていた、以下の言葉も心に残った。スーさんが自信について、語られた内容である。
一個ずつ集めていく。
それがジェーン・スーさんの言うこと。
自信をもつというのは信用すること。
自分も、教育にかかわっているので、若い人から「どうやったら自信を持てますか?」と聞かれることがある。
スーさんのそもそも「自信の設定を変えること」という言葉は非常に参考になる。
自信というのが、私たちの思っているのはまずは、上で言われているように、間違えないこと、失敗しないことになっている。しかしその設定自体が間違っているのだ。
スーさんは、生きてきて、どんなに落ちても、そこから這い上がれる、死にはしないということを学んだという。それは、何も成功者になるということではない。もう死ぬ、と思うことが何度もあったけれども、死ななかった。そして次の年には、もう次のやりたいことが出てきたり、人を好きになったりしていたというのだ。
確かにそうだ、自信というのは、失敗しても死なない、そこからまた這い上がれる。そう思えるだけでいいのだ。それくらいの自信でいい。しかし私たちはあまりにも失敗してはいけない、自信をもつなと教育されすぎているのではないか。
そもそも「自信」ということを世間の言う自信に自分から合わせに行かない。
これはほかの言葉に関してもそうではないか?
友情とか愛とか、成功とか、そういうことすらも、どうして世間の設定したものに合わせに行くのか?そのこと自体を見直すスーさんの視点から大きな示唆をいただいた。
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