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読書メモ 宮城顗『本願に生きる』2024.04.01

昨日、宮城顗先生の『本願に生きる』(東本願寺出版)を読んだ。宮城顗先生の浄土の理解から学ぶところが多かったのでここにメモしておきたい。
この本は10年以上前に読んだ気がするが、何一つ覚えていなかった。
しかし、当時全く理解できなかったと思うが、今は理解できることも増えていた。
この本でテーマにされていることは多岐に渡るが、主として個と公ということが課題にされていた。
後半で問題提起されている「ひとりよがりではない信仰がどこでなりたつのか」「ひとりよがりではない立教開宗ということがどこで成り立つのか」という問いとも、個と公という問題は通底している。
さらにこの本では真仏土と化身土ということもテーマにされている。宮城先生は

決して、「真仏土」に生きるのか「化身土」に生きるのかということではなくて、どこまでも「化身土」の自覚ということだけが、自らの全身をもって本願を聞くという歩みを開かせる

118頁

と述べておられる。これも非常に大切な言葉だと思うし、たずねて行かなければならないことである。

宮城先生の本の内容は、すでに自分が問題視していた、あらゆるものがマネタライズされる道具になっていくということを言っていた。宮城先生の本を読んで、自分が問題に感じたり、考えたりしていることは既に、仏教の歴史の中でとっくに考えられているのだなとあらためて思った。自分の考えなどなんて浅はかで、ちっぽけなのか。

読書メモ 宮城顗『本願に生きる』

無三悪趣の第二は「餓鬼」(preta)です。逝くもの、逝けるもの。そこから転じて、いつも子孫の供養を待っているものというような意味が重ねられてきたそうです。要するに、自らの欲望を満たされないで苦しんでいるものです。これは決してなにもないということではありません。餓鬼ということには、食べる物も飲む物もない、文字通り「無財餓鬼」ということがありますが、同時に「有財餓鬼」ということが説かれています。有るということの中に、それも山ほどのものに取り囲まれている。これはちょうどバブルがはじける直前でしたが、「未足」という言葉を知りました。三菱電機では、年頭、迎える年を表す言葉をいろいろ出し合って決めるそうです。そしてその言葉をひとつの旗印として、どういう商品を作れば時代状況にあって購買意欲を引き出せるかを研究する。ちょうどバブルがはじける直前、ある意味ではみんなが多財、いろんなものを買い揃えた時代ですが、そのときにこれから迎える時代は「未足」の時代だと。未足というのは、一応全部揃えてしまった。ないものは何もない。洗濯機もあるし、テレビもあるし、ガスレンジから何から欲しいものは全部揃っている。全部揃たけど何か物足りない、何か満たされない。そういう気分で暮らしていくのが、この一年のみんなの気持ちだと。たくさんの物を持ちながら満足できない。何か欠乏感を抱えている。といって、それが直接具体的にあれが欲しい、あれが自分にはないというものは何もない。一応全部揃えている。だけど満たされていない。多財餓鬼とはまさにそういう未足の状態でしょうね。たくさんあることにおいて満たされていないのです。『大無量寿経』では「有無同然」(真宗聖典五八頁)と説かれています。財産があるのもないのも同じ。物に苦しむということにおいては変わらない。田畑があれば田畑があることで苦しむし、田畑が無ければ田畑がないことで苦しむ。まさに餓鬼というのは、ただ欠乏しているというだけではありません。いうならば、物に苦しめられている。苦しめられ方は無有同然です。あってもなくてもです。この餓鬼という状況、これが資本主義社会において人間の陥るところでしょう。すべてのものを利潤追求のためのものとしてしか受け入れられないし、認められない。いつも思い出します高史明さんの言葉に「現代人は山に材木を見て、木を見ない」ということを語られていましたが、まさにそういう状況ですね。木をみてもそこにいのち、一本の木はたとえ一本であってもその世界がいのちの世界だということを象っているわけですし、しかも木というものは自分だけが生きているのではない。根において、幹において、枝葉において、いろんな生き物を養う。いろんな生き物の生きる場を与えている。そういういのちの交わり、いのちが共に生きていく、そういう具体的な姿として木ということがあります。仏教では、木という言葉が非常に大事に使われますね。釈尊の生涯もすべて木で語られています。「無憂樹」のもとで生まれ、「菩提樹」のもとで悟り、「沙羅双樹」のもとで亡くなるというように全部木で象徴されている。そしてまた、私たちの聞法の場というものも「道場樹」という言葉で表される。木というものは、まさにいのちがいのちの交わりの中でいのちに目覚め、いのちを育んでいくのが木です。現代においては木材としてしか、つまり利益をあげるための素材としてしか見なくなっている。安田理深先生は、「資本主義社会に在っては時間も空間も全部金だ」といつもおっしゃっていました。たとえば特急料金というのは時間を買っているわえけです。だから、何時間か遅れたら特急料金は返却されますね。時間を売ったけれど、時間を欠乏商品にしてしまったわけですから。高速道路は時間ではないのです。あれは場所を借りている。一切の時間、空間が利潤を生むための時であり、時間の場として使われている。だから、資本主義社会にあっては、本来こういう聞法の場というのは成り立ち得ない。ある意味で聞法の場、聞法の時間というものは、おおげさに言えば資本主義社会のあり方と切り結んでいるということでもあるのでしょう。ともかく、資本主義社会派すべてのものを利潤を生むものとして見る。ハイデガーという人は、「自然というものは、現代人においては巨大なガソリンスタンドでしかない」、そこからいかに多くのエネルギーを取り出すか、自然といっても川も山もすべて巨大なガソリンスタンドだという言い方をしています。ある童話で、神様から何でも望みの物をやると言われた欲深い男は、どれだけ巨大な金塊といっても形に成っているものは限りがあるわけですから、それじゃあつまらん、自分の手がふれたものが全部金になる手をくれと言った。それをもらって喜び勇んで、すべてのものに手をふれていくと全部金に変わる。有頂天になっていたら、そのうちおなかが減ってきて、食べ物を食べようと思ったら金になってしまって食べられない。水を飲もうとしても水が金になってしまい飲めない。そうしてついにのたうち回って、もとへ返してくれとと言ったという童話があります。ある意味で現代人はまさにすべてを黄金に変える手を持ったと言っていいかもしれません。すべてのものを物質的価値に変えてしまった。そして、それ自身の生きた価値というものをついに手にして生きることができなくなっている。こういうあり方が現代人の、まさに餓鬼の姿ではないかと思います。宗教的施設も全部利潤をあげる場に変えられていくわけです。この頃はホテルがやたらと結婚式用のチャペルを建てていますが、礼拝なんかしたことないでしょうね。結局、教会での結婚式を望む若い人たちを魅きつけるために教会を建てている。すさまじい商魂ですが、私たち仏教にあっても葬儀の形でそういうものに侵されているということが言えるかと思います。餓鬼というのは、ぬくもりがあるいのちにふれられない悲惨さです。自分の欲望は満たしていったけれども、ついに温もりのあるいのちに出会えない。そこに「餓鬼」という問題がおさえられているかと思います。

宮城顗『本願に生きる』pp.17-22

「木というものは、まさにいのちがいのちの交わりの中でいのちに目覚め、いのちを育んでいくのが木です。現代においては木材としてしか、つまり利益をあげるための素材としてしか見なくなっている。安田理深先生は、「資本主義社会に在っては時間も空間も全部金だ」といつもおっしゃっていました。」
➩木という、木自体の事実を見ずに、材料としてしか見れくなっている。
これは千葉雅也が、「ただ無為にバイクで暴走する、アホな遊びで盛り上がる。それは何にもならないエネルギーの消費だった。思い出だけが残った。だが今はアホな遊びを動画にすればマネタイズできるかもしれない。何をやってもどこかにマネタイズの可能性がチラつく。筋トレでも何でも」とツイッターで指摘していることと、同じ指摘ではないだろうか。
宮城先生は、「だから、資本主義社会にあっては、本来こういう聞法の場というのは成り立ち得ない。ある意味で聞法の場、聞法の時間というものは、おおげさに言えば資本主義社会のあり方と切り結んでいるということでもあるのでしょう。」ともいう。つまり、純粋な聞法な場は今日においては成り立ち得ないのだという問題を指摘している。これも非常に大切な指摘である。純粋な聞法の場が成り立たない、聞法すら名利、勝他と離れることができないのだということ。では我々は、純粋な聞法の場ができない限り、聞法するべきではないのだろうか。このことも考えてみるべき大事なテーマだと思う。
やはり、私たちは、仮の場にいる。真仏土、浄土にはいないと言いうことを自覚しつつ、それでも、聴聞の場、それはどこまでも虚仮不実なものだとしても、虚仮不実だからこそ生きている今教えに聞いていかなければならないという態度で聞いていくことしかできないのであろう。これは先人たちの態度、親鸞聖人、法然上人の態度からも学んでいくべきことだろう。

すべてのものを黄金に変える手を手に入れた男の話も示唆的である。すべてを材料にしてしまう。これは現代で言えば、まさに自然の風景もインスタのイイねに変換されてしまう。出会いでさえも、愛でさえも、撮影すれば動画として金に変換される。すべてが金になってしまう。これは本当に恐ろしいことだが、宮城先生が既に指摘しているのだ。そのようにして私たちは世の中にあるものをすべて金に換えてしまった。そしてそこでは、寓話に出てくる男は水や食べ物も金になってしまい、摂取出来なくなるのだ。現代で言えば、本当に何かと出会うということができなくなるのだろう。その時を生きる。その出会いを生きるということができなくなり、全てが薄っぺらい書き割りのごとき存在(虚構)になる(”なる”というか”してしまう”)。そのことの悲しさというものがあるように思う。全部が自我を立てる材料になる。
しかし、教言を通してその事実を教えられつつ、だからこそ願われていることを聞いていく。虚仮不実の身の悲しみが聞法の場になるのだと思う。

その他にも気になった言葉をメモしておきたい

善導大師が深心釈に「唯信仏語」という言葉をおかれていますね。
「深信する者、仰ぎ願わくは、一切行者等、一心にただ仏語を信じて身命を顧みず、決定して行に依って、仏の捨てしめたまうをばすなわち捨て、仏の行ぜしめたまうをばすなわち行ず。仏の捨てしめたまう処をばすなわち去つ。これを「仏教に随順し、仏意に随順す」と名づく。これを「仏願に随順す」と名づく。これを「真の仏弟子」と名づく。」
「仏語をいただく」ということよりも、結局は自分の理性的なものさして仏教の言葉をいろいろ議論したり、納得したり、さらに言えば削除したりしている。そういうことが否定しがたくあるのではないか。

46頁

➩仏教マンガにもこのような危険性がある。

「無三悪趣の願」から出発して、実は真に三悪趣の中に願行をもって生きるものを生み出していこうとする、その願心が法蔵の願心なのでしょう。願心というのは、できるできない、成就する成就しないの問題ではないわけです。見込みがないからやめておこうというなら願ではない。それはただの夢であり、期待でしかないのでしょう。
願というのは、たとえ不可能と知っても、なお願わずにおれないことが願というものです。存在を推し出すものが願です。できるできない、こうかがあるあがらない、そういう判断のところで立ち止まるものならば、それは願とはいわないのでしょう。
ただ、やはり成就しないのなら、願はやはり虚しいのではないかと思われますけれども、実は本当に願心に目覚めているということがあるならば、人を立ち止まらせないということがある。自分に満足し、自分に閉じこもるということを許さない。そういう力を私の上に及ぼすものが願なのでしょう。
どこまでも願が力になることが成就である。願っていたことが実現したことが願の成就ではない。親鸞聖人は二度にわたって引いておられますが、『浄土論註』の「不虚作住持功徳」の言葉です。「願もって力を成ず」、そして「力もって願に就く」、これを成就と。願が力となり、その力の歩みの一歩一歩において願がいよいよ明らかにされてくる。
そういう展開が成就であって、そこに、
願徒然ならず、力虚設ならず。力・願あい府うて畢竟じて差わず。かるがゆえに成就と曰う。(「行巻」真宗聖典一九九頁・「真仏土巻」三一六頁)とあります。願が成就するということは、願が私を歩ましめるということにあるわけです。願っていたことが実現したということをもって成就というのではない。

57-58頁

御同朋ー一切衆生をみる眼ー
そして、さらに親鸞聖人は、先ほどの「清浄願往生心」という言葉を「能生清浄願生心」と押さえられています。
「能生清浄願生心」と言うは、金剛の真心を獲得するなり。本願力回向の大信心海なるがゆえに、破壊すべからず。これを「金剛のごとし」と喩うるなり。(「信巻」真宗聖典235頁)
親鸞聖人にあっては、その一本の糸、それは「本願力回向の大信心海」と押さえられているわけです。その大信心海の「大」というのは、いうまでもなく、個人性を破るということですね。つまり、私の根源的な目覚めというものを信心とあらわすのですが、しかもその信心は、誰の上に起こってもその人を超えると。私の上に起こった信心だから私のものというわけにはいかない。自らの上に起こったその信心に、自らが帰するという意味をそこに持つわけでしょう。だからこそ、その本願力回向の大信心海ということは、その人個人にとどまるということがないということですね。
それは、「化身土巻」に「顕彰隠密」ということが出ていますが、その「彰」ですね。
「彰」というは、如来の弘願を彰し、利他通入の一心を演暢す。(「化身土巻」真宗聖典三三一頁)
そこに「利他通入の一心」とあります。「一心」というのは、どこまでも「我一心」。一人ひとりの上に成就する一心なのですが、それは「利他通入」、他に通入するという。個人の主観性にとどまらずに、他に通入していくという意味が明らかにされております。「利他通入の一心」であればこそ、「自信教人信」ということが成り立つのでしょう。「利他通入の一心」でなかったら、「自信」と「教人信」は別々になる。
そこに、おおよそすべての人間を貫いておるもの。「利他通入」、特に他に通入しておるもの。存在の、それぞれ具体的なあり方は異なっているけれども、その本質において、この一点は変わらないという。そこに初めて「同朋」という意味が成り立つわけですね。
そうしてみますと、「御同朋・御同行」という言葉は、決して念仏者どうしの頷き合いの言葉ではない。なにか今日「御同朋・御同行」と頷き合うということならば、その頷き合える輪をいかにひろげるかという問題になるのでしょうね。
そして、往々にして、いわゆる真宗同朋会運動というものも、いかにして輪をひろげるか、「御同朋」と頷き合える人間をいかに増やしていくかと。そういうこととして私たちが取り違えてきたのではないか。その「御同朋」という言葉は、実は「一切衆生」、つまり、おおよそ人間をみる眼を言い表している言葉であって、あえていえば、念仏者とは一切衆生を「御同朋」として見出していく存在。念仏者が「御同朋」なのではない。念仏者の集いが「御同朋」なのでもない。念仏者とは一切衆生、一切の人間を「御同朋」として見出していく。そういう心をたまわったものであり、その歩みを開かれたものだというべきではないか。
私なども、いつのまにか「御同朋・御同行」という言葉を内に向いての、内輪どうしの頷きのようなニュアンスで聞きもし、言いもしてきたように思うのです。その限り、それは閉ざされた世界の歩みにしかすぎないのでしょう。まさに「ひとりよがりの立教開宗」ということにとどまるのでしょう。
しかし、もし一切の人間を「御同朋」として見出していくという、そういうあり方こそが念仏者であるということになりますと、実は真宗同朋会運動というのは、本来常に、いうならば、外なる世界に眼を開き、心を開いて歩む歩みであるはずなのですね。とにかく、「御同朋」という言葉は、意図つにはそういう一切の存在、おおよそ人間というものをみる眼に則して用いられるべき言葉だと思うのです。

75-78頁

親鸞は信心を海として表現した。海は決して個人的なものではない。海は決して握れない。握ってはいけないし、原理的に握れないのである。海すらも握れると考えるのは人間の愚かさである。海はどこまで行っても皆のものなのである。そういうものとして、信を表現しているということに非常に感動する。どこからこのようなアイデアを得たのだろうかとも不思議に思う(海を握ってはいけないというのは違うな。原理的に握れないんだな海は。ここも大事かもしれない。人間が言う「そんなことはしてはいけない」という当為や規範ではなく、原理的にそういうことができない。道理として海は握れない。信心もそうだ。自分のものに決してできない。道理としてできないんだ。だから海なんだな。)。

宮城先生の本の中では、P106以下に「真仏土と化身土ー本願酬報の世界ー」ということが展開しており、この部分も、真仏土と化身土を考える上で極めて重要なことが書かれているが、今は省略したい。しかしこの部分は何度も読み直すべき部分である。

問い:海を信とするならば、その信じられる対象は一体何なのか?信が海とは一体どのような状況であり、どのような信なのか?少なくとも私たちが考えているような信とは全然違うはずである。

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