昨日、宮城顗先生の『本願に生きる』(東本願寺出版)を読んだ。宮城顗先生の浄土の理解から学ぶところが多かったのでここにメモしておきたい。
この本は10年以上前に読んだ気がするが、何一つ覚えていなかった。
しかし、当時全く理解できなかったと思うが、今は理解できることも増えていた。
この本でテーマにされていることは多岐に渡るが、主として個と公ということが課題にされていた。
後半で問題提起されている「ひとりよがりではない信仰がどこでなりたつのか」「ひとりよがりではない立教開宗ということがどこで成り立つのか」という問いとも、個と公という問題は通底している。
さらにこの本では真仏土と化身土ということもテーマにされている。宮城先生は
と述べておられる。これも非常に大切な言葉だと思うし、たずねて行かなければならないことである。
宮城先生の本の内容は、すでに自分が問題視していた、あらゆるものがマネタライズされる道具になっていくということを言っていた。宮城先生の本を読んで、自分が問題に感じたり、考えたりしていることは既に、仏教の歴史の中でとっくに考えられているのだなとあらためて思った。自分の考えなどなんて浅はかで、ちっぽけなのか。
読書メモ 宮城顗『本願に生きる』
「木というものは、まさにいのちがいのちの交わりの中でいのちに目覚め、いのちを育んでいくのが木です。現代においては木材としてしか、つまり利益をあげるための素材としてしか見なくなっている。安田理深先生は、「資本主義社会に在っては時間も空間も全部金だ」といつもおっしゃっていました。」
➩木という、木自体の事実を見ずに、材料としてしか見れくなっている。
これは千葉雅也が、「ただ無為にバイクで暴走する、アホな遊びで盛り上がる。それは何にもならないエネルギーの消費だった。思い出だけが残った。だが今はアホな遊びを動画にすればマネタイズできるかもしれない。何をやってもどこかにマネタイズの可能性がチラつく。筋トレでも何でも」とツイッターで指摘していることと、同じ指摘ではないだろうか。
宮城先生は、「だから、資本主義社会にあっては、本来こういう聞法の場というのは成り立ち得ない。ある意味で聞法の場、聞法の時間というものは、おおげさに言えば資本主義社会のあり方と切り結んでいるということでもあるのでしょう。」ともいう。つまり、純粋な聞法な場は今日においては成り立ち得ないのだという問題を指摘している。これも非常に大切な指摘である。純粋な聞法の場が成り立たない、聞法すら名利、勝他と離れることができないのだということ。では我々は、純粋な聞法の場ができない限り、聞法するべきではないのだろうか。このことも考えてみるべき大事なテーマだと思う。
やはり、私たちは、仮の場にいる。真仏土、浄土にはいないと言いうことを自覚しつつ、それでも、聴聞の場、それはどこまでも虚仮不実なものだとしても、虚仮不実だからこそ生きている今教えに聞いていかなければならないという態度で聞いていくことしかできないのであろう。これは先人たちの態度、親鸞聖人、法然上人の態度からも学んでいくべきことだろう。
すべてのものを黄金に変える手を手に入れた男の話も示唆的である。すべてを材料にしてしまう。これは現代で言えば、まさに自然の風景もインスタのイイねに変換されてしまう。出会いでさえも、愛でさえも、撮影すれば動画として金に変換される。すべてが金になってしまう。これは本当に恐ろしいことだが、宮城先生が既に指摘しているのだ。そのようにして私たちは世の中にあるものをすべて金に換えてしまった。そしてそこでは、寓話に出てくる男は水や食べ物も金になってしまい、摂取出来なくなるのだ。現代で言えば、本当に何かと出会うということができなくなるのだろう。その時を生きる。その出会いを生きるということができなくなり、全てが薄っぺらい書き割りのごとき存在(虚構)になる(”なる”というか”してしまう”)。そのことの悲しさというものがあるように思う。全部が自我を立てる材料になる。
しかし、教言を通してその事実を教えられつつ、だからこそ願われていることを聞いていく。虚仮不実の身の悲しみが聞法の場になるのだと思う。
その他にも気になった言葉をメモしておきたい
➩仏教マンガにもこのような危険性がある。
親鸞は信心を海として表現した。海は決して個人的なものではない。海は決して握れない。握ってはいけないし、原理的に握れないのである。海すらも握れると考えるのは人間の愚かさである。海はどこまで行っても皆のものなのである。そういうものとして、信を表現しているということに非常に感動する。どこからこのようなアイデアを得たのだろうかとも不思議に思う(海を握ってはいけないというのは違うな。原理的に握れないんだな海は。ここも大事かもしれない。人間が言う「そんなことはしてはいけない」という当為や規範ではなく、原理的にそういうことができない。道理として海は握れない。信心もそうだ。自分のものに決してできない。道理としてできないんだ。だから海なんだな。)。
宮城先生の本の中では、P106以下に「真仏土と化身土ー本願酬報の世界ー」ということが展開しており、この部分も、真仏土と化身土を考える上で極めて重要なことが書かれているが、今は省略したい。しかしこの部分は何度も読み直すべき部分である。
問い:海を信とするならば、その信じられる対象は一体何なのか?信が海とは一体どのような状況であり、どのような信なのか?少なくとも私たちが考えているような信とは全然違うはずである。