「自己肯定感の授業」から考えたいこと
自己肯定感が、誰かと比較したうえで自分の有用性を認められたところに得られるものだとしたらそれでは話にならないのである。
誰かが言うような自己肯定感ではダメなのではないか。
前向きになるとか、比較するとかそういうことがそもそもあんまり意味がないと腹落ちしなければ、そこから自己肯定感を考えなければあんまり意味がないのであろう。ということを、以下のニュースを見て思った。高校で自己肯定感を高め自殺防止をすると言う授業が行われているらしい。これ自体は素晴らしいことであり、こういう取り組みがないよりも、有った方がはるかにいいのである。
校長先生の言葉が紹介されていた。この校長先生は信頼できると思った。特に、インタビューの中で自己肯定感の低さと、自死の多さがイコールで結びつくか分からないと留保しているところに好感が持てた。
一方で、自分に対して前向きになることが最初からいいことにされていること。この点は、少し考えてみたい。もし前向きになることが良いことだとすれば、前向きになれないことはダメと言うことになる。しかし人生というのは前向きになれる時ばかりではないし、総じて前向きになれない人だっている。そうすると、そのことを最初から良くないと教えることは、前向きになれない時の自分の価値を認めないことになってしまう。
そもそも前向きになれない自分を許す。前向きになれないときもある自分を許す。そこから始めたい。そうでなければ、結局成績を上げていく構造と同じ回路で、私達は自己肯定感を上げていく講義を受け、そして、それを身に着けることで良しとしていく。そうすると、そう成れないものを排除してしまう。そう成れない自己を排除してしまう。
そうではなくて、まったく何者にもなれない自分を認める。許す。そこにしか本当の自己肯定はないのではないか。
このことは、多くの生徒たちがコミュ障と前置きしてから話すことともつながっている。
何らかのキャラや個性を持たなければ生きてはいけないと感じてしまうこととも通じる。
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