色々な本や冊子を読むのだが、悉く忘れてしまうので、読んで心に残ったものをこれから少しでもこのノートにメモして残していきたいと思う。
☞親鸞の使う闇とは、真っ暗で何も見えないということではなくて、私は正しいと、自分を問うことなく平然と日常生活を送っていることではないか?という問題提起にハッとする。そして、闇を明らかにするのが真宗の教えであり、知識を積み重ねるために教えを聞くのではないという指摘にも自分を言い当てられた感じがする。
また、『名古屋御坊』2024年2月号を読んでいて教えられたことがある。親鸞『一念多念文意』に次のような文章がある。
荒山信氏によると
親鸞は、清浄安楽な世界だと聞いて、浄土に生まれたいという人も今浄土に生まれることが定まるのだと言っていることをあらためて知った。
なぜこの部分が気になったかと言えば、親鸞は『教行信証』「信巻」で次のようにも述べているからだ。
つまり、他の人とともに救われたいという心を起さずに、ただ、楽な世界だと聞いて浄土往生を願うものは生まれないとも書いているからだ。「信巻」のこの部分は、菩提心・度衆生心のことを説いている文脈だからかもしれないが、先の『一念多念文意』の内容と言っていることが少しずれているように思う。この辺りも、より検討しなければならない。
『名古屋御坊』2024.6月号の米沢英雄先生の論考もすごい内容である。
難しくて良く分からないけど、すごいことを言っていると思う。米沢氏は医師でもあるので、脳科学の視点からそもそも人間がなぜ浄土というものを構想したのかという話をしている。人間は超越的無意識があり、その意識に対応するのが浄土だという。浄土は本当にみんなが平等な世界なのだろうな。それが実現されることは実社会ではないだろう。しかし、そういう世界がやはりあると想像できるのが人間であり。そういう概念自体が人間を救うということはやはりある。
続けて米沢先生は念仏について次のように語っている。
南無阿弥陀仏は、五劫の間南無阿弥陀仏に到達できずに沈没していった人類の苦悩の墓場であり、法蔵菩薩の凱歌というところには、本当に深いものを感じる。日本の憲法9条が、戦争で亡くなっていった人たちの悲しみの歴史から生まれてきたものだと言われることがある。そのことと通じるように思う。ただ生れて来たのではない、多くの人の悲しみの歴史の上に立ち上がってきた言葉であり凱歌なのである。
『崇信』2024年3月号の児玉暁洋先生と、岸上仁さんの論考があまりにすごい。何度も何度も読みたいと思わせられる文章だ。特に岸上さんの文章は若い人が読んでも、全く真宗に縁がない人が読んでも響く所が多いと思う。毎年テストで学生に文章を読んでもらって感想をかいてもらっているのだが、岸上さんの文章をぜひ出したいと思った。