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2024.3.10 読んだもの

色々な本や冊子を読むのだが、悉く忘れてしまうので、読んで心に残ったものをこれから少しでもこのノートにメモして残していきたいと思う。

聖教に残す自身の課題
親鸞聖人は、自らの著作の中で「闇」ということを課題にします。例えば「正信偈」には「無明闇」(《真宗大谷派勤行集』」」10頁)、和讃には「三途の黒闇」(『同前』100頁)とあります。私たちが知っている「闇」は夜です。夜になると、真っ暗で何も見えなくなる。ですから「闇」という言葉は、私たちが見えていない、または、はっきりしていない、という事実を示す時に使われます。
親鸞聖人が言う「闇」は、外が真っ暗で何も見えないという意味ではないでしょう。「私は正しい」「私は間違いない」と、自分のことを問うことなく平然と日常生活を送っていること、それが「闇」ではないでしょうか。私たちは、実は一番身近にある自分自身のことがはっきりしていないのです。
その「闇」を明らかにするのが、真宗の教えです。ですから、知識を積み重ねるために真宗の教えを聞くのではないのでしょう。教えを聞けば聞くほど、普段はまったく課題にならない「私」が課題になる。「闇」を抱えて生きている「私」が見えてくるのです。ここに、教えを聞く大切な意味があるのではないでしょうか。お念仏を中心とする生活の中で、他人事、余所事ではなく、私事を課題にして生きて行ったのが親鸞聖人ではないかと思います。

青木玲先生「闇を生きる私(上)」『南御坊』2024年3月号、1頁

☞親鸞の使う闇とは、真っ暗で何も見えないということではなくて、私は正しいと、自分を問うことなく平然と日常生活を送っていることではないか?という問題提起にハッとする。そして、闇を明らかにするのが真宗の教えであり、知識を積み重ねるために教えを聞くのではないという指摘にも自分を言い当てられた感じがする。

また、『名古屋御坊』2024年2月号を読んでいて教えられたことがある。親鸞『一念多念文意』に次のような文章がある。

『浄土論』(論註)に曰わく、「経言「若人担聞彼国土清浄安楽 剋念願生
亦得往生 即入正定聚」此是国土名字為仏事 安可思議」とのたまえり。この文のこころは、もし、ひと、ひとえにかのくにの清浄安楽なるをききて、剋念してうまれんとねがうひとと、またすでに往生をえたるひとも、すなわち正定聚にいるなり。これはこれ、かのくにの名字をきくに、さだめて仏事をなす。いずくんぞ思議すべきやと、のたまえるなり。安楽浄土の不可称・不可説・不可思議の徳を、もとめずすらざるに、信ずる人にえしむとしるべしとなり。 

『聖典』535ー536頁

荒山信氏によると

ここで親鸞聖人は、すでに往生を果たした人だけでなく、「かのくにの名字をきき」、「浄土にうまれたい」と念仏申す人もまた、その願いにおいて往生が定まるのだと言われます。ではその願いを抱くのはどこの話かといえば、それはやはり今なのでしょう。私たちにとって死はいずれ来たる未来の出来事かもしれませんが、少なくともそれを考えるのは生きている今のはずです。死という事実を今考えることはそのまま、今をどう生きるかという問い返しとなってはたらくのではないでしょうか。…中略…死の不思議は、生の豊かさに通じていくからです。そしてそれはさらに自分が出あった人たちへの慈しみにも通じていきます。互いに限りある今を生きているのだという事実が、自分も他者もかけがえなく尊い存在であるということに気づかせてくれるのです。

荒山信氏『名古屋御坊』2024年2月号、1頁

親鸞は、清浄安楽な世界だと聞いて、浄土に生まれたいという人も今浄土に生まれることが定まるのだと言っていることをあらためて知った。

なぜこの部分が気になったかと言えば、親鸞は『教行信証』「信巻」で次のようにも述べているからだ。

 『論註』に曰わく、王舎城所説の『無量寿経』を案ずるに、三輩生の中に行に優劣ありといえども、みな無上菩提の心を発せざるはなし。この無上菩提心は、すなわちこれ願作仏心なり。願作仏心は、すなわちこれ度衆生心なり。度衆生心は、すなわちこれ衆生を摂取して有仏の国土に生ぜしむる心なり。このゆえにかの安楽浄土に生まれんと願ずる者は、要ず無上菩提心を発するなり。もし人、無上菩提心を発せずして、ただかの国土の受楽間なきを聞きて、楽のためのゆえに生まれんと願ぜん、また当に往生を得ざるべきなり。このゆえに言うこころは、「自身住持の楽を求めず、一切衆生の苦を抜かんと欲うがゆえに」と。

『聖典』237頁

つまり、他の人とともに救われたいという心を起さずに、ただ、楽な世界だと聞いて浄土往生を願うものは生まれないとも書いているからだ。「信巻」のこの部分は、菩提心・度衆生心のことを説いている文脈だからかもしれないが、先の『一念多念文意』の内容と言っていることが少しずれているように思う。この辺りも、より検討しなければならない。

『名古屋御坊』2024.6月号の米沢英雄先生の論考もすごい内容である。

大脳新皮質とその底にある本当的無意識、さらにその底にある超越的無意識ということを申し上げておりますが、この新皮質で出来ている世界が人間の世界で、本能的無意識で出来ている世界が生物的世界であります。人間には肉体がありますが、私はこれが全てではなく、人間の全体とは「身体」といわれるべきものではないかと思うのでございます。では、肉体と身体とはどう違うかというと、これは大変面倒な問題であります。私の解釈で申し上げますと、肉体というのは身体の一部、露骨にいいますと胃袋と生殖器ですね。食べられるものと食べられないもの、また雄と雌があるというように、外に生物的世界を見出すわけでございます。動物にはこれしかありませんが、人間には新皮質があって、外に社会というものを見出すのです。しかし人間には超越的無意識というものもありまして、これが見出してくる世界が浄土であり、この浄土に生きているのが人間の身体だと思うのでございます。浄土とは単に死んでからいく世界というわけではなく、人間の全体、身体が生きている世界をいうのです。
どうして浄土を見出すことができるかというと、自力の限界を知って南無阿弥陀仏した時に広い世界全体に遇う、魂が目覚めるのです。私の身体全体が生きていると自覚する、これが南無阿弥陀仏の意味だと思うのです。人間が真に生きているということは、南無阿弥陀仏においてはじめてそのように言える。そして、その歓びを人間の一番内面にある魂で感得し、満喫することができる。そのように世界全体をいただくことができるのが我々の魂の目覚める時であって、この私が世界全体と同じ重さを持つことができるのです。

米沢英雄氏『名古屋御坊』2024年2月号、3頁

難しくて良く分からないけど、すごいことを言っていると思う。米沢氏は医師でもあるので、脳科学の視点からそもそも人間がなぜ浄土というものを構想したのかという話をしている。人間は超越的無意識があり、その意識に対応するのが浄土だという。浄土は本当にみんなが平等な世界なのだろうな。それが実現されることは実社会ではないだろう。しかし、そういう世界がやはりあると想像できるのが人間であり。そういう概念自体が人間を救うということはやはりある。
続けて米沢先生は念仏について次のように語っている。

五劫というのは非常に広大な時間でして、一人の人間が五劫の間思惟するということは我々には考えることができません。人間が生まれたというのは苦悩が生れたということでして、苦悩のないところに人間は存在しません。また苦悩を持ったということは苦悩を脱却しようとする悪戦苦闘が始まったということでもあります。この人間発生から苦悩を解決しようと悪戦苦闘した歴史、それが五劫ということではないでしょうか。苦悩を持ち、脱却しようとする、そこに法蔵比丘があります。五劫の間生まれ変わり死に変わり続き、そして結果として南無阿弥陀仏に到達した人が法蔵菩薩と言われるのではないかと思うのでございます。
そうすると、一人の法蔵比丘が五劫思惟され永劫の修行をされたのではなく、この法蔵比丘は、法蔵比丘群の代表者ではなかろうかと思います。例えば学校の卒業式で一人の代表者が免状をもらわれるように、一人が成仏するときに皆成仏するのでございます。南無阿弥陀仏というのはたった六字ですけれども、実は五劫の間南無阿弥陀仏に到達できずに沈没していった人類の苦悩の墓場ではなかろうか、そして最後に南無阿弥陀仏に到達した法蔵菩薩の凱歌ではないかと思われます。人間は皆この世間で悩むのですが、自覚しなくても南無阿弥陀仏を探し求めているわけでして、到達できるかどうかは宿縁によります。南無阿弥陀仏はそうした全人類の苦悩を含むと同時に、その苦悩を超えた人類の凱歌であろうと思うのであります。
このようにいただきますと、『大無量寿経』は「我聞如是」から始まって「靡不歓喜」で完結しているように見えますけれども、実は決して完結しておりません。人類の続く限り、全人類が南無阿弥陀仏に到達して、生きる歓びを満喫するまでは完結しない、永遠に完結しないのが『大無量寿経』というお経であると思うのでございます。

米沢英雄氏『名古屋御坊』2024年2月号、3頁

南無阿弥陀仏は、五劫の間南無阿弥陀仏に到達できずに沈没していった人類の苦悩の墓場であり、法蔵菩薩の凱歌というところには、本当に深いものを感じる。日本の憲法9条が、戦争で亡くなっていった人たちの悲しみの歴史から生まれてきたものだと言われることがある。そのことと通じるように思う。ただ生れて来たのではない、多くの人の悲しみの歴史の上に立ち上がってきた言葉であり凱歌なのである。



『崇信』2024年3月号の児玉暁洋先生と、岸上仁さんの論考があまりにすごい。何度も何度も読みたいと思わせられる文章だ。特に岸上さんの文章は若い人が読んでも、全く真宗に縁がない人が読んでも響く所が多いと思う。毎年テストで学生に文章を読んでもらって感想をかいてもらっているのだが、岸上さんの文章をぜひ出したいと思った。

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