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静かなる心と共に時間を過ごすということ

昨日、信田さよ子さんのイベントで、最近の生徒たちは何のために生きているのかわからない。存在理由がわからない。私なんていなくてもいいんではないかと思ってしまう。そういうことを言う子が増えている。どんなあなたでも価値がある。あなたが生きる今日の一日に価値があるというのだが、そういう言葉は無力だと思う。自分が役に立つ存在と思えないなら、自分にも価値が認められないというのはよくわかる。そういう子どもたちにどういうことを伝えてあげたらいいのかと質問した。
そしたら、信田先生は、「どんなあなたでも価値がある。生きているだけで価値がある。そういう言葉はほとんど意味がない。大切なのは、具体的にその人の人生に関わることだ。例えば何をしているとき楽しい?何が好き?とか、どんなことをしているのが好き?と聞いてあげる。そういうことを聞く、それしかできないし。それでいい。抽象的な格言みたいなことを言うことにはほとんど意味がありませんから」。とぴしゃりと言われた。なるほどと思ったし、自分の質問の浅はかさが突き付けられた気がした。
自分は手っ取り早く誰かを勇気づけたり、元気づけたりする言葉を手に入れたかったのではないか?しかしそんな誰にでも通じる手っ取り早い言葉なんてないし、そういう言葉はものすごく危ないのではないか?お釈迦様がやったことを見てみても、彼がやったのは、心を病んだアジャセ王の話をひたすら聞いただけではなかったか?誰からも見放された孤独なアジャセとただ一緒にいた。それだけではなかったか?しかしそれが大事なのだ。誰がアジャセの話を聞いたのか?誰がアジャセと一緒にいたか?法蔵菩薩もそうだ。ありとあらゆる世界の善悪を見たということは、人類の過去を見たということだ。時間をかけて人類の過去と向き合った。そこから未来が生まれた。
過去を観ずに未来は生まれないのだ。ポジティブ思考の危うさはそこにある。過去を観ずに未来だけ観る。そこに本当の意味で未来はない。
過去を観たところに始めて未来がある。
これは今のジャニーズの問題を見ても言えるはずだ。過去の暗い悲しみ、子どもたちの負った悲しみとちゃんと大人が向き合ったり、話を聞いたり、清算したりすることなく、明るい未来なんてないということは明らかだ。
釈尊、法蔵菩薩、がしたことはひたすら人と向き合った、つまり最後まで人の話を聞いたというそのことだけではないだろうか?
そのこと以外に何かしたのか…。
手っ取り早くいい言葉を見つけて、自分を助けたり、誰かを助けようというのは本当の意味で利他にはならないのだと知った。
そういう意味で、本当に教育というものがあるとしたら、それは共に時間をかけて過ごすということだけではないか。最後まで生徒の話を聞こうとする。それだけなのかもしれない。

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