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自他を愛することの最も基礎的な修練

瀧波ユカリさんの言葉

「自分を愛する」という言葉に対して否定的な意見(気持ち悪い、愛する必要などない等)を見るとモヤモヤしてたんだけど、最近思うのは否定する人は「愛する」をナルシスティックな意味に捉えてるのかもってこと。私にとって「自分を愛する」は「自分に向かって しね と言わないこと」です。「自分に向かって しね と言わない?そんなの当たり前でしょう」と思える方々は、「自分を好きになる」「自分を愛する」なんて考える必要はないし今のままで問題なしOK大丈夫!だから当たり前じゃない人に向かって「愛するなんて(笑)」とか言わないでそっとしておいてくださいね!という気持ち。ちなみにうんと若い頃は私も「自分を愛する」的な考えを笑っていた。自分に厳しいのが当たり前だと思ってたから。時々自分が自分に しね って言ってることに気付いて「だからこんなにいろいろ大変なんじゃん!!」ってびっくりしたのが30半ばになってから。

瀧波ユカリ

今日であった瀧波ユカリさんの言葉にうならせられた。
瀧波さんは、自分を愛するということは「自分に向かって しね と言わないこと」だと言う。これはすごく大切な話だと思った。自分からは出てこない眼である。
愛するということを私たちはロマンチックに考えすぎという言葉が刺さる。愛する形には色々なものがある。そして、自分に死ねといわずに自分を扱うということも、愛する形だという。愛というのは間違いなく修練だと思う。愛するということはある種の修練のように続けて行かないと続かない。

だとすれば、私達はつい自分が上手くいかないと自分なんていなくなればいいとか、自分なんて消えたらいいと口走りそうになる時に、言わないでいる。自分に向かって死ねと言いたくなるところで立ち止まる。ということを続けることによって自分を本当に愛して行けるようになるのではないか。それは自分の中の内なる他者とそっと一緒にいるという感覚である。
それで十分なのではないだろうか。そしてそれが愛する事の基盤になりうるのではないか。そのように自分を扱えなければ、他の人の存在に対し「消えろ」と言わずにいることもまたできないであろう。こうした最も基礎的な愛の修練として、瀧波さんの言われることは非常に大事だと感じる。
(終)
以下は瀧波ユカリ先生の本


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