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大谷哲夫編著『永平廣録 大全 』読書ノート(4) 無言で無反応な弟子たちとの対話

僕はこれまで、第一巻の上堂語のなかで、道元がなぜこのような話をするのか特にわからなかったのが、上堂語64である。
どんな話か、簡単に言うと。

世間の人たちが花見に行って楽しんでいるとき、七人の娘たちは「私たちは世間並の楽しみに耽るべきではない」と、屍者の埋葬所に行く。
そこで死体をみた娘が、「屍はここにあります。が、人は何処に行ってしまったのでしょう」というと、天から花が乱れ落ちてきて、帝釈天が姿を現して、「皆さんが、さとりを得たので、讃美したのです。」という。

そして帝釈天から「何か必要なものがあれば」言ってくださいと言われた娘は、「根のない樹、陰日向のない土地、叫んでも反響しない山谷」が欲しいという。

ところが帝釈天はそれらをもっていない。帝釈天は仏のもとをたずねると、仏は「偉大な仏道修行者だけが、このことを知っている」という。

そこで道元(興聖)が登場して、娘にいう。
根のない樹が必要か。それは庭前の柏の樹だ。もしそれでは用をなさないというならば、この私の杖がそうだ。
陰日向のない土地が必要か。屍陀林がそれだ。もしそれでは用をなさないというならば、尽十方世界がそれだ。
叫んでも反響しない山谷が必要か。ならば七賢女を呼んで、『姉妹たちよ』と呼びかけよう。彼女たちが『はい』と応諾すれば、彼女たちに言おう。貴方たちに、叫んでも反響しない山谷を与え終わったぞ、と。もし応諾しなければ彼女たちに向かって言おう、それみよ、叫んでも反響がない、と。

道元は、なぜ上堂語64で、この話をしたのだろう。これまでさっぱり思い及ばなかった。いつも読み飛ばしていたのだが、今回、大谷先生の『永平廣録 大全』を読んでいて、道元の気持ちがわかった気がした。

仁治二年(1241)春、日本達磨宗の弟子たちは、宗派を上げて道元に弟子入りした。しかし、いざ、興聖寺に来てみると、五戒は守らない、坐禅中は居眠りばかり、そして何より勉強しないし、自分があれこれ問いかけても一切反応がない。

君たちといると、自分が屍陀林にいるような気分になる。

それで、この七賢女の話を思いだしたのだが、どうして君たちは何も反応をしないのか。

私のもとで、仏道を学ぶために入門したのではなかったのか。

道元は、無言で無反応な日本達磨宗の弟子たちと対話するために、あえてこの上堂をしたのではないだろうか。


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