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春爛漫

春宵一刻直千金

昼間は子供たちの声で賑わった公園は、夜は静かだ。
春の夜の一刻は千金に直する。

北宋の詩人蘇軾は、漢詩「春夜」にて実に上手いことを言ったと思います。
4月の詩吟教室では、春の夜が美しいこの時期に味わいたい詩吟を取り上げました。

春夜 蘇軾

<白文>
春宵一刻直千金
花有清香月有陰
歌管楼台声細細
鞦韆院落夜沈沈
春宵一刻直千金

<書き下し文>
花に清香有り 月に陰有り
歌管楼台 声細細
鞦韆(しゅうせん)院落 夜沈沈

<通釈>
春の夜は、ひとときが千金に値するほどで、花は清らかに香り、月は朧に霞んでしる。高楼の歌声や管弦の音は今はかぼそく聞こえるだけ、中庭にひっそりと鞦韆(ぶらんこ)が下がり、夜は静かに更けていく。  

通釈は、『石川忠久 中西進の漢詩歓談』(大修館書店、2004年)より引用しました。
また、石川先生は、この詩のおもしろいところは「華やぎと静けさの対比」にあると書いています。

宮中の春の夜の宴は華やかだが、月見の宴が終わりかける頃になると、声が細々と静まる。そんなときに、ふと鞦韆(ぶらんこ)に目がいくのだが、なぜぶらんこに目がいったのかというと、昼間に宮女たちが遊んでいた光景が焼き付いていたからだ。
夜のぶらんこは、昼間の華やぎの余韻を感じさせるものだが、それ以上に「夜のぶらんこ」についての二人の歓談が面白い。
ぶらんこは西方から伝わってきたもので、中国では漢代にはあった。当時のぶらんこは縄で吊られ、色彩の綺麗な縄で宮女たちが袖をひらひらさせてぶらんこをこぐという光景はなまめかしいものにうつった。夜のぶらんこには「つややかな、色めいた残影」があるのだ。



では、古代中国のぶらんこは、どのようなものだったのでしょう。

中国国際放送局の記事(2011年4月1日)に「ぶらんこ乗り」のことが紹介されていました。ぶらんこは、古代中国の習慣で、鞦韆(チューチェン)とも書き、皮の綱を掴んで揺り動かすという意味だそうです。昔のぶらんこの支えは木の枝で作られ、色とりどりの帯がかけられていました。この絵を見るまでは、優美なぶらんこを想像していたのですが・・・。高さもあるこのぶらんこに乗るのは勇気がいるかもしれません。


夜の公園に咲く桜

九段の桜


九段 千鳥ヶ淵

桜が満開の好時節、詩吟教室では、本宮三香の「九段桜」を取り上げます。九段の靖国神社には、気象庁が行う開花宣言の桜の標準木があり、靖国神社~千鳥ヶ淵は桜が咲き誇るとまるで春の海のようです。

九段桜 本宮三香

<白文>
至誠烈々貫乾坤
忠勇誉高靖国門
九段満花春若海
香雲深処祭英魂

<書き下し文>
至誠烈々 乾坤(けんこん)を貫く
忠勇の誉は高し 靖国の門
九段に花満ちて 春海の若し
香雲深き処 英魂を祭る


芳野三絶

桜の名所として、吟詠家は奈良の吉野山を思い浮かべます。
吉野の桜と南朝の歴史を詠んだ三つの絶句は「芳野三絶」と称され、この時期に取り上げたい詩吟です。
「芳野三絶」である梁川星巌「芳野懐古」、藤井竹外「芳野懐古」、河野鉄兜「芳野」を紹介します。

芳野懐古 藤井竹外

<白文>
古陵松柏吼天飈
山寺尋春春寂寥
眉雪老僧時輟箒
落花深処説南朝

<書き下し文>
古陵の松柏 天飈に吼ゆ
山寺 春を尋れば 春 寂寥
眉雪の老僧 時に箒(ほうき)を 輟(とど)め
落花 深き処 南朝を 説く

<意訳>
後醍醐天皇の御陵のあたりの松柏は、大風に吼えるような音を立てている。山寺に春を尋ねてみると、春はもうひっそりしている。雪のような白い眉の老僧が庭を掃いていたのだが、私の姿を見て箒を持つ手を止め、落花の中、南朝の話をしてくれた。老僧はどのような話をしてくれたのかと、南北朝の歴史を紐解いてみたくなる。

芳野 河野鉄兜

<白文>
山禽叫絶夜寥寥
無限春風恨未銷
露臥延元陵下月
満身花影夢南朝

<書き下し文>
山禽叫絶えて 夜 寥寥
無限の 春風 恨み未だ銷せず
露臥す 延元陵下の月
満身の 花影 南朝を夢む

<意訳>
後醍醐天皇は吉野に逃れて三年程過ごし亡くなったのだが、南朝時代の恨み、哀しみはまだなくなっていない。全身桜花に包まれていつもまにか眠ってしまったら、南朝の昔の夢を見たのであった。


芳野懐古 梁川星巌

<白文>
今来古往事茫茫
石馬無声抔土荒
春入桜花満山白
南朝天子御魂香

<書き下し文>
今来古往 事 茫茫
石馬 声無く 抔土(ほうど)荒る
春は 桜花に入りて 満山 白く
南朝の 天子 御魂 香ばし

<意訳>
昔から今日まで漠然としていてはっきりしない。石馬は声無く、辺りもひっそりとして荒れている。春のこの時期、桜は美しく、山に咲き乱れる花は白く美しい。花が後醍醐天皇の御霊をお慰めしているかのようで、その御霊は香ばしく感じられる。

梁川星巌は藤田東湖、佐久間象山と親しく、勤王の志士たちと交わり国事に奔走しました。安政の大獄の直前にコレラで亡くなり、「星巌は死(詩)に上手」と評されたそうです。

「満山白く」という表現にもあるように、吉野山の桜が咲き乱れる写真はとても幻想的で、古への想像力を掻き立てられます。

吉野町観光協会HPより

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